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2007/05/24

永遠の命は霊ではない

今日から、新任の神父様の入門講座が始まりました。

ルカ11章を読んで、質問の出たところをお話ししていただきました。質問が出たのは「人々はしるしを欲しがる」(ルカ11・29-32)でした。ここはよくわかりませんでした。

イエスさまは、人々がしるし(奇跡)を欲しがるが、しるしはヨナのしるしだけであるとされ、人の子もしるしとなるとされたお話です。

このヨナというのは、ヨナ書の1章と2章にあるように、海が荒れてる責任を押し付けられて海に投げ込まれた預言者ヨナが、魚に食われたものの3日後に助かるお話です。

このことを元にマタイによる福音書では

ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる(マタイ12・38-42)

とされているように、ヨナとイエスさまの受難と復活のお話だけが「しるし」だということです。

ここで、永遠の命と復活の質問が出ました。神父様の答えは

イエスさまの復活と、世界の終り(最後の審判)の復活は同じ(5/27追記)、ユダヤの考え方は、死後も新しい命でそのままで、ギリシャのファンタズマ(霊)とは違う。

とのことでした。神父様はポルトガルの方で、日本語があまり得意ではありません。言葉が得意でないと、最も本質的なことだけを言われるのでしょう。この言葉を聞いて、ようやくキリスト教がわかったような気がしました。

キリスト教は輪廻転生がない宗教です。それは単に1回だけか繰り返すかと考えていました。でも、死後に霊であるか、そのままかという違いがあったのですね。

霊という考え方を発展させると、人間が仮の姿であるという考え方である二元論になります。異端の呼ばれる宗教はこの「二元論」につながることが多いようです。

有名なところでは、ダ・ヴィンチ・コードで有名になった外典福音書(正典と外典の説明)を記したとされるグノーシス主義があります。また、アウグスチヌスのころはマニ教、アッシジのフランシスコの頃はカタリ派というように、さまざまな形であらわれていました。

二元論のルーツの一つは、ギリシャのプラトンまでさかのぼることができます。そう、高校で習った哲学者のプラトンです。プラトンは、真の存在はイデア界にあり、この世(現実界)はその影にすぎないと考えました。人間は真の姿を見ることはできず、理性によってのみイデアを認識することができるとしました。

ここで異端につながって危険なのは、この世は劣った存在であると考えることです。創造主を劣った神であると考えたり、真面目に生きても仕方がないと享楽的になったり、この世を否定した上でイデアを認識しようと過酷な修行に走るなど、さまざまな問題が生じます。

これに対して、キリスト教で重要なものは、この世が素晴らしいものであるということです。この世は劣ったものではなく、創造主が「良しとされた」(創世記10,12,18,21,25,31)素晴らしいものである。ということが救いになります。

この世は神の国が完成するまでの物語なので繰り返しはなく、作られたものはそのままなのです。そう思って考えてみると、イエスさまは亡霊ではなく体のあることを示されました(ルカ24・39)し、使徒信条にも「からだの復活」とあることが重要であると思えます。

さらにこの考えを広げると、遠藤周作さんが受難後に弟子たちの心に復活したイエスさまとされていたのも、霊のようなものではなくイエスさまそのものということになります。それは、「言は神であった」(ヨハネ1・1)とされている三位一体の神そのもの、すなわち、イエスさまの言葉が弟子たちの心に復活したに違いありません。

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