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2007/04/07

誰を探しているのか - 聖木曜日・聖金曜日 -

聖なる過ぎ越しの3日間の2日目が終わりました。

昨日の聖木曜日はゲッセマネでイエスさまが一人で祈られた日です。聖木曜日に行われた最後の晩餐はミサになり、弟子達の足も洗われ洗足式になりました。

説教では「私にとって」ミサとは、聖体拝領とは、司祭職とは、を考えて、信徒使徒職が叫ばれる今を考えるように語られました。

ゲッセマネの園でイエスさまが祈られたとき、3人の弟子を連れておられましたが、弟子達はわかっていたのでしょうか。自分勝手な思いで、イエス様を見ていたのではないでしょうか。わたしも知らず知らずに、自分勝手な神様の姿を描いているかもしれません。

聖体拝領のときに、「めぐみのパン」(典156)を歌いました。

神は恵み豊かにあわれみ深く、怒るに遅くいつくしみ深い

勝手な思いですが、これが私にとっての神様の姿です。

そして今日、聖金曜日は、イエスさまが亡くなられた日です。十字架のイエス様には布がかけられたまま、御聖体は別のところに安置されていて聖櫃はからっぽです。聖変化もないのでミサではありません。妙にさびしい祭儀です。

受難朗読ではヨハネの福音書のゲッセマネの園でイエスさまが捕らえられ、ピラトの裁きを受け、十字架にかけられ、墓に収められるまでを前の3人と会衆で読みました。

最初のゲッセマネの園でイエスさまを捕らえに来た兵士たちにイエスさまが言われました。

「誰を探しているのか」(ヨハネ18・5)

この言葉が妙に気になりました。洗礼を受けるまで、いや、今も、その人を探し続けています。皆でこう答えました。

「ナザレのイエスだ」(ヨハネ18・5)

これからも自分なりに姿を思い描きながら、ずっと探し続けるのでしょう。

そして、十字架の礼拝がありました。列に並んで前に行くと、そこには磔のイエスさまがおられました。神さま向かって様々な気持ちを思い巡らしていると、第1朗読の言葉を思いだしました。

彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。(イザヤ53・5)

いよいよ、洗礼式ですね。相互リンクさせてもらっているdemechanやチキータさんも洗礼を受けられます。神様に出会うまでのこと、洗礼で清められる罪のこと、生まれ変わるまでにじっくり考えておいてください。きっとすばらしい洗礼になりますよ。

神に感謝!

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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