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2007/02/17

聖コルベ神父と26聖人 - 天使のゼノさん -

ゼノさん、あなたは殉教をおそれますか。」とたずねたミキシミリアノ・マリア・コルベ神父(本文中ではマキシミリアン・コルベとされています)は、「わたしといっしょに二十六聖人の殉教の地である日本に行きましょう。」日本26聖人のお話をして、ゼノさんと共に日本に来られました(桑原一利著「日本二十六聖人の祈り 天使のゼノさん」pp.11-12,聖母文庫)。

あるとき、コルベ神父は二十六聖人の記録の中に、聖マチアスを見つけて深い感動を持って読んだ、と話されました。この聖マチアスは、逮捕者の名簿に載っていなかったのですが、別人の料理人マチアスがいなかったので身代わりになったそうです。コルベ神父は聖マチアスがヨハネ福音書(ヨハネ11・46-57など?)の証をしたと感動されていたのです。

料理人のマチアスについても、立派な人生だと語られました。

この人は、自分が選ばれなかったことを残念に思い、しばらく悲しみましたが、自分の身代わりになった聖マチアスのことを誇りに思い、彼の身代わりの愛を讃えることに、残りの生涯のすべてを費やしたのです。これもなかなか出来ることではなかったでしょう(pp.80-82)。

このように聖マチアスを語ったコルベ神父は、アウシュビッツで同じように身代わりになられました。(pp.121-122)

ナチスのアウシュビッツ強制収容所では、同じ部屋から脱走兵が出ると十人が餓死刑になります。コルベ神父のおられた14号棟から脱走兵が出て、10人が選ばれました。その中の一人フランシスコ・ガヨビニチェク氏は

「さようなら、かわいそうな妻、かわいそうな子供たち、孤児になるなよ。ああ、子供たちに会いたい。」

と叫びながら列に並び、泣きながら立っていました。すると、コルベ神父は疲労でフラフラでしたが、軍曹の前に進み出て言いました。

「わたくしは、カトリックの老いた司祭です。妻子ある、あの人の身代わりに、自分を連れて行ってください。」

こうして、コルベ神父は知らない囚人の身代わりになるという愛の行為で、囚人たちを永遠の命の中に導きました。また、

身代わりになったコルベ神父は、真っ裸にされ、食事と水のかわりに屈辱のみを与えられましたが、いつもきちんとした司祭らしい態度を守り、賛美歌を先唱し、祈りを捧げ、みなを最期まで祝福し、励ましました。地下室はまるで教会のようだったと言っています。

多くの囚人が2週間を過ぎると死ぬ中、肺結核と気管支炎を患っていたコルベ神父は3週間目まで生き長らえ、フェノール注射で殺されました。そのときも、とてもやさしい顔で注射をしたドイツ人の目をじっと見たそうです。

本文中には「自己犠牲」という言葉が書かれていますが、そんな言葉では表し難い愛を感じます。遠藤周作は「沈黙」の中で、踏み絵を踏もうとする神父に「踏むがよい」と言わせますが、そんな神の姿を、コルベ神父は見ていたのだと思います。

脱走者は1年ほどで収容所に戻り、処刑されたそうです。命を救われたフランシスコ・ガヨビニチェク氏も戦争が終わって家に帰ると、すでに子供たちは亡くなっていたそうです。なんと戦争は残酷なのでしょう。そんな中で、神がコルベ神父を通して示された愛はよけいに輝いて見えます。

ガヨビニチェク氏は93歳まで長生きされたそうです。会うすべての人にコルベ神父の愛を語り継いだそうです。そして、いつも

「自分が殺されて、優秀な司祭だった神父さまが生き残ったほうが、もっと多くの人を救えてよかったに違いない」

と、言われ、聖コルベ神父に祈られていたそうです。コルベ神父は亡くなられましたが、その愛は永遠に語り継がれました。

殉教した聖マチアスもすばらしいですが、殉教しなかった料理人マチアスもすばらしいと思います。同じように聖コルベ神父もすばらしく、ガヨビニチェク氏もすばらしい人です。

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コメント

AVE MARIA+
「コルベ神父は二十六聖人の記録の中に、聖マチアスを見つけて深い感動を持って読んだ、と話されました。この聖マチアスは、逮捕者の名簿に載っていなかったのですが、別人の料理人マチアスがいなかったので身代わりになったそうです。
この人は、自分が選ばれなかったことを残念に思い、しばらく悲しみましたが、自分の身代わりになった聖マチアスのことを誇りに思い、彼の身代わりの愛を讃えることに、残りの生涯のすべてを費やしたのです。これもなかなか出来ることではなかったでしょう(pp.80-82)。」
とても感謝します。たいへん勉強になりました。でも人間の意志で身代わりができると思うのは、無理ではないでしょうか?どうしても聖霊さまのちからとアウシュビッツで阿鼻叫喚の死体処理をしていた地獄の中で生身を消したい気持ちが働いていたことも想像がつくのですが。。。。そして聖霊さまのはたらきに身を任せたのではないでしょうか。殉教者に共通している最後の場面はどうしても聖霊さまに身を任せている姿だと思いますがどうでしょうか?。

投稿 pinpinkorori | 2008/04/25 00:04

コメントありがとうございます。
おっしゃるように、聖霊の働きはあったでしょうね。

ちなみに、私は神様を擬人的にとらえていないので、
- 聖霊に従う
- 聖霊の導き
- 聖霊の働き
- 霊動弁別
- 背中を押される感じ(by遠藤周作さん)
すべて同じだと思っています。

投稿 さかば(管理人) | 2008/04/25 12:15

ありがとうございます。おっしゃるとうり、聖霊さま(プロテスタント用語)を人格なしで表現とするほうがよいのかもしれません。
ただ、「み言葉(langage)は、人(イエスキリスト)となった」というように、人格がどうしても仲介していると考えるほうも(プロテスタントのように使用するほうも)自然な気もしますがどうでしょうか。三位一体が、人格次元でもあるので、ギリシャ正教の有名なイコンでは人物が3人描かれているように。
遠藤氏の「背中を押される感じ」は、凡庸な私たち信者の読者には、理解不能で経験的にもないです。たとえばいわゆる「聖霊の満たし?」も、むしろ垂直方向から頭上にくる感じでした。「すべての神からの恵みは、また神の位置は、一般に考えられているように斜め前方方向にあるのではなく頭上の垂直方向にあり、やってくる」(カールバルト)ようで、ささやかな経験ですが、私や知人への神の召命や恵みも、こちら人間の想定外からきて、90度垂直の頭上からドカンと落ちてくる感じでした。でも人それぞれですし、いろいろのありようがあると思います。いずれにしても、ふりそそいでいる神の恵みをとりこぼししないようにしたいです。ありがとうございました。

投稿 pinpinkorori | 2008/05/05 18:42

どうもコメントありがとうございます。
もちろん、三位一体なので、それぞれのペルソナは存在します。ただ、私は一体の神をおもに意識しているようです。
科学者が研究の末に見つけるという偉大な力の存在とか、神の似姿として造られた人間の心の奥に存在する「愛」に神を感じています。良きサマリア人が助けずにはいられなくなった心の底の「愛」は、神が背中を押したのだと思うのですよね。
神学的な裏付けがない個人的な感じ方なので、うまく説明できなくてすみません。

投稿 さかば(管理人) | 2008/05/05 23:35

なるほどそんな感じ「背中から・・」もあるのですね。よくわかり感動しました。とりわけ「科学者が研究の末に見つけるという偉大な力の存在」という所に惹かれました。
それは、イエスキリストが「私は道であり真理であり生命である」(ヨハネ)という有名なことばの「真理」と同じと思ったからです。説明しますと、この場合の「真理」とはヴぇりタス(らてん語)ヴェリテ(仏語)で大文字です。大文字の真理とは、単なるそのときそのときで発見する真理(小文字)ではなく、天才の学者や研究者が生涯をかけて(かけないと到達しない)到達するかしないかの「真理」です。それが、イエスキリストご自身であり、「自分をとうらなければ父のもとには行けない」というものです。アインシュタインから近所のおばさんまで、イエスキリストを信じると、この「真理」に達する。
たとえてみると、「0.99」という数字に人間の努力でうんとがんばって力んでも何億円の費用をかけて実験し「0.99・・・」と横に数字をならべても、決して「1」には達しない。そしてその「1」のところになんとイエスキリストがいる。「生命」も大文字です。「生命は地球より重い」という意味の大文字の「生命」でそれとイエスキリストが同じ。「道」は、文字どうり生き方、方法です。それがイエスキリストそのもの。
とうわけで、このキリストの自己紹介文の「名刺」(?)のようなキリスト像はすごいパワーです。
おっしゃられる「偉大な力の存在」をかんじます。
キリストが、私達のような弱いグータラでは盲人が盲人を連れていくと同じになって、キリストは私達と共倒れになってしまって、「弱いから強いのです」(コリント2)と、わたしたちの弱さを転化してくださることは無理になってしまうのではないでしょうか。
キリスト教のありがたいことは、わたしたちは何もしなくても神が聖霊を送り私達のグータラを転化して下さることを信じえるありがたい宗教であることではないでしょうか。
キリストは、わたしたちがグータラでも「すべて良し」として下さるお方です。大切にしたいと思います。ありがとうございました。

投稿 pinpinkorori | 2008/05/06 10:14

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