« あいさつの言葉 <')))>< | トップページ | 幸いと不幸 »

2007/02/11

私がイエスを神とする理由

mixiのとあるコミュで書いたコメント(いわゆる使い回し)です(一部修正)。

私が洗礼を受けたのは、キリスト教が煩悩を捨てるのではなく、それを受け入れ、ゆるしてくれるからだと思います。

仕事がうまくいかずに苦しんでいたときに父親が亡くなって、まず、家の宗派(仏教)の本を読みました。確かに良いお話が書かれていたのですが、なにかピンとこない、自分とは関係がないような感じがありました。

そのころ妻が教会に通いだしていて、私が死んだときの葬儀が仏式だと気持ちが入らないと言いましたので、少しぐらいは読んでおこうかと本を読みました。昔、エッセイを読んでいた遠藤周作の入門書「私のイエス」を読みました。そして、引き込まれるように「イエスの生涯」「キリストの誕生」を読みました。そして、それまでの苦しみから逃れることができました。

仕事がうまくいかないのは自分にも責任があると、うすうす感じながらも、認めることができませんでしたが、「キリストの誕生」を読んでようやく認めることができたのです。

人々に見捨てられ、弟子にも裏切られ、十字架を背負ったイエスは、最期の時も人々のゆるしを父に願い、共に処刑された犯罪者も救いました。

良いところも、悪いところもすべて受けとめて、ゆるしてくださる、その完全な姿は弟子たちの心に残り、神として復活しました。それまで使徒たちは、イエスの教えを理解できませんでしたが、キリストの復活後、教えを積極的に広めるようになりました。

使徒たちと同じように、私はイエスの姿によって、自分の傲慢さに気づかされました。

イエスが神であるというのは、キリスト教の定義する神であるということです。その定義をアーメン(そのとおり、その通りでありますように)と思えるかどうかだと思います。私は遠藤周作の現実的な解釈によって救われ、聖書を読んでニケア・コンスタンチノープル信条をアーメンと思うようになりました。もちろん聖書は誰が読んでも良いことが書かれていると思いますが、救いを求める気持ちがあるからこそ、聖書の言葉に救われるのだと思います。

たしかに信仰はタイミングだと思います。学生のころに私が遠藤周作を好きだったこと、妻がカトリックの学校を出たこと、父が亡くなったこと、他にも色々な偶然がありました。その偶然を神様のしるし、すべて良いことだと思うことが回心たと思います。現実に苦しむよりも神の愛を感じて幸せに生きたい、それが私がイエスを神とする理由です。

<')))><

|

« あいさつの言葉 <')))>< | トップページ | 幸いと不幸 »

コメント

遠藤周作で検索して来ました。私は遠藤周作のファンですが、最近田川建三の書物に触れすごく驚くこともありました。田川は遠藤を批判しています(『宗教とは何か』という書物で。これは最近復刻されました)が、人としての遠藤には親しみを覚えていたようです。

投稿: ジュリアン | 2007/02/12 15:04

コメントありがとうございます。
宗教に批判的な新約聖書学者の方のようですね。興味はありますが、遠藤周作いわく「事実と真実はちがう」ので、難しいところですね。

投稿: さかば(管理者) | 2007/02/12 15:38

おしゃるとうり「事実と真実はちがう」のですが、どうちがうのかとふりかえっていいますと、その田川健三を否定した吉本隆明の田川健三への批判(すみません。題名は忘れました)があります。、田川はこれまでの伝統的キリスト像をはぎとり、「神の子イエス」を「イエスという男」にします。が、はぎとりすぎてしまい味もそっけもない(思想もない)平板で凡庸なイエス像にしてしまう。(田川の現在刊行中の聖書訳の平板でつまらない訳文も同じあやまり)それに対して吉本隆明は「ちょっと待ってほしい」と2千年来耐えてきた貴重な思想をもつイエス像(「マチウ書試論」)を守るのです。田川健三は、この批判をこえることはまず不可能。ボロボロ。私の遠藤氏への評価が低いのも田川の影響です。神様は、田川健三の遠藤氏へのいちゃもんのしっぺがえしを、(他人の目のほこりやちりにきづくが自分の丸太にはきがつかない?)吉本隆明の口をとうしてされたようです。そのやりとりは、田川健三の思いあがりの人生へのぜんぶの否定になっています。長い間、すべての本を私は読みましたが、何か変だと思いつつもそれを言い表してくれる人がいませんでした。わたしののどのつっかえを皮肉にも無神論者の吉本隆明がとってくれました。田川健三は、吉本とおなじく「否認と破壊」を自分の存在表現とする方でわたしたちに「告発」の仕方を教えますが、(この手の神学者に共通ですが)「救いの処方箋」をくれようとはしないのです。遠藤氏は、それとはちがって人間の心の深みにおりて「救いの処方箋」を確かにくれます。(ききめは、各人の症状がちがうので、あるかどうかはべつとして)

投稿: pinpinkorori | 2008/05/08 08:25

投稿者<pinpinkorori>さんの投稿内容ですがまず、田川<健三>となっていますが、正しくは<建三>です。

<pinpinkorori>さんの示されていますことについて私の書庫の蔵書で確認しました結果は、各書物の時間的経緯が違っています。このことを最初にここで指摘いたします。

田川建三『イエスという男 逆説的反抗者の生と死』三一書房、1980年2月
田川建三『宗教とは何か』大和書房、1984年3月
『思想の危険について-吉本隆明のたどった軌跡』1987年8月 インパクト出版会

吉本隆明著作集第4巻 文学論 1 1969.4.25 
第I部
伊勢物語論I …………………………………5
伊勢物語論II…………………………………16
歎異鈔に就いて………………………………33
マチウ書試論…………………………………42

マチウ書試論が書かれたのは、吉本隆明著作集第4巻 文学論1が出版された1969年4月25日より前です。つまり、吉本がマチウ書試論を書いたのは、田川の著作への反論として書いたわけではないのです。 
もうひとつ、<マチウ書試論>の冒頭部分から吉本が書いているのは、<虚構>としてのイエス、<実在しないイエス>です。その意味でも、<pinpinkorori>さんのお書きになった内容は、<pinpinkorori>さんの言葉をそのまま使えば<ボロボロ>だと判断します。ただ、<ボロボロ>というエモーショナルな言葉を使うのであれば、根拠を示して丁寧に論理を展開する必要があると思います。

投稿: 昨日のジョー | 2013/05/27 09:15

昨日のジョーさんのコメントで<さかば>とされておりましたが、内容的に<pinpinkorori>さんへのコメントと判断して修正させていただきました。

投稿: さかば | 2013/05/27 12:08

ごめんなさい。おっしゃるとおり、さんでした。お詫び申し上げます。

投稿: 昨日のジョー | 2013/05/27 13:39

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/138594/13863728

この記事へのトラックバック一覧です: 私がイエスを神とする理由:

« あいさつの言葉 <')))>< | トップページ | 幸いと不幸 »