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2007/01/13

神の国はあなたがたの間にある

聞いたことのある聖句でも、急に輝くことがあります。「神の国が来る」のはじめの2節(ルカ17・20-21)にこんな言葉があります。

ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」

先日、教会を語られた講話のなかで天国は死んでからのものではないとして、この「神の国はあなたがたの間にある」を聞いて、少なからずショックを受けました。西洋は個人主義で、社会をベースにした考え方は日本的なものだと思っていたからです。

日本の思想史研究を基に倫理学を展開した和辻哲郎という倫理学者がいます。彼の「自他不二」という考え方は、自分と他人は二つでない、「場」とでも言えるような「間柄」において一つであるというものです。人が人と関わるとき、対立するものでなく同じ場を共有するものであるという考え方です(のんちさんのコメントにあるように元々は仏教用語で、全ては均等とか、境界がないという意味のようです)

これまで、この「間柄」の概念は、日本的なものだと思っていましたが、「神の国はあなたがたの間にある」という言葉は、まさに「自他不二」の最高の状態を表しているではないでしょうか。

しかし良く考えると、和辻倫理学として習った「自他不二」が間柄というものを表しているのに対して、「神の国」は「間」にあると言っています。つまり、神の国は、仲間、地域、国、といったものにくくられた間柄、つまり環境や利害を共にする一体感のようなものではなく、人々の最高の場としての神の国を示しているのでしょう。

人はそれぞれに役割や立場という十字架を背負って生きています。そして、苦しみ、傷つき、悲しみ、喜び、生きています。役割や立場といった間柄ではなく、人と人として心を開いて、喜びも悲しみも分かち合う。そんな人と人の間に、神の国があるのではないでしょうか。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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コメント

「自他不二」ですか。
難しいことはわかりませんが,
カトリックでは,しばしば,
「神は人を通して語って下さる」って言いますよね。
私が少しかじっている集団療法でも,
「他人を見て自己に気づく」ということを基本原理に据えています。

投稿: ct(MAGIS) | 2007/01/13 10:36

さかばさん、はじめまして。

>聞いたことのある聖句でも、急に輝くことがあります。
私もそう思います。ヒトが生きていくうえで知っておくべき教えが、聖書にはたくさんあると思います。

>神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。

「神の国はあなたがたの中にあるのだ」とは、イエス様を信じないパリサイ人に、自分自身がメシヤであると、彼らに悟らせようとしたのではないでしょうか。
「あなたがたの中にある」とは信徒の信条であり、あるべき心を諭している言葉だと思います。そして私はまだ、神の国は設立されていないと考えています。ゆえに将来救われ、神の国に入ることを期待します。

また仏教の言葉である「自他不二」とは、一切平等差別のない「大慈大悲の心」であり、自己と他は二ではあるが二ではなく、一つであるという心だと理解しています。
ゆえに「間柄」や「場」といった概念での話と、「神の国はあなたがたの中にあるのだ」と言うイエス様の言葉との繋がりが、私にはピンときませんでした。

私の学びが足りないのだと思いますが、率直な感想でした。
失礼しました。

投稿: のんち | 2007/01/13 11:17

>ct(MAGIS) さん
いつもコメントありがとうございます。人を通して、とか、人を見て、というと、それはやはり、個人を中心に考えたものだと思います。故郷に帰ったときに、自分や他人を意識せずにほっとするような、そんな仮面を脱ぎ捨てることのできる場所が、教会の目指す神の国なのではないかと思います(表現を使わせていただきました)。
追記した講話については、また改めて記事を書きたいと思っています。

投稿: さかば(管理者) | 2007/01/13 14:23

>のんちさん
はじめまして、コメントありがとうございます。
「自他不二」は仏教用語だったのですね。勉強になります。私が聞いた「自他不二」は、人が生きるための倫理観として、宗教とは関係のない形で大学で教わりました。大学では「場」と習い、Wikipediaでは「間柄」とされていたので、あのようにまとめました。
聖句のほうは、背景となった(広い意味での)教会に関する講話の説明が不足していましたね。これに関しては、別途記事を書くつもりですが、簡単に言うと、のんちさんの言われる「あるべき心」を実現したものが、神の国であるというお話でした。
ということで、ちょっと書き足しました。
これからもよろしくお願いします。

投稿: さかば(管理者) | 2007/01/13 14:46

横合いからシツレイします。「自他不二」に関する議論興味深く拝読しました。

キリスト教はもとより仏教にも和辻哲学にも冥い人間が言うので、あくまでボクの勝手な解釈なのですが、

「自他不二」とは、さかば様ものんち様もおっしゃるように、「自」と「他」の関係性を示す概念ですよね。

ただ、のんち様の「自己と他は二ではあるが二ではなく、一つであるという心だ」という解釈よりも、さかば様の「「場」とでも言えるような「間柄」において一つである」という点が、自他不二のポイントであろうかと思います。

個は個として存在せず、他があって始めて自は成り立ち、自もまた他にとっての存立の基盤となる他であるという、存在の根拠となる「関係性」、すなわちそれが仏教的「空」である。


この考えを踏まえて、さかば様は

>神の国はあなたがたの間にあるのだ

という言葉の「間」という言葉に、同じような「絶対的な、存立の基盤となる関係性」を感じ取られた。


それがこのエントリのキモだと思います。


なので、のんち様が
>「神の国はあなたがたの中にあるのだ」
と、「間」を「中」に置き換えてしまわれた瞬間、のんち様にはさかば様の意図がぼやけてしまったのではないでしょうか?

おそらく、この句の正当なコンテクストはのんち様の解釈、すなわち、「自分自信がメシアである」という、個人の心のもちよう、信仰観を示すものだとは思うのですが、

そこをあえて、「間」という言葉を契機に、意味をずらして、人と人との関係性の重要さ、そこに神の計らいを感じたのだ、と、聖書の言葉を、さかば様が主体的に読み替えなさった、というふうにボクはこのエントリを理解し、とても感銘を受けました。

>西洋は個人主義で、社会をベースにした考え方は日本的なものだ

これは、もちろんそういう傾向は明らかにあると思いますが、「関係」を重視した思想家は西洋にも、います。

たとえばマルティン・ブーバーは、「我と汝」において、上に書いた「自他不二」の、西洋風バリエーションのような思想を展開しています。

>ブーバー(1878~1965)という思想家は、『我と汝』(1923)という主著において、人間というのは、基本的に他者との関係にあることを見抜(いた)

http://www.aoyamagakuin.jp/rcenter/story_312.html


長々とシツレイしました。

投稿: いっちゃん | 2007/01/13 15:40

あれ、さかば様のコメントと追記を見ずに、コメントしちゃいました(^^;

投稿: いっちゃん | 2007/01/13 15:44

>いっちゃんさん
見事な解説ありがとうございます。
実は、この記事の元になったお話は、リンクして頂いたような、キリスト教の公共性のお話でした。いっちゃんさんの洞察はお見事です。

> これは、もちろんそういう傾向は明らかにあると思いますが、
> 「関係」を重視した思想家は西洋にも、います。

情報ありがとうございます。実は「日本独自」と書きかけて、そんなことはないだろうと「日本的」と直しました。勉強になります。
ブログ「いっちゃんの日々」に書かれた記事もすばらしいですね。

これからもよろしくお願いします。

投稿: さかば(管理者) | 2007/01/13 16:23

さかばさん、いっちゃんさん

丁寧なコメントありがとうございます。
たいへん勉強になりました。

私は哲学というものを、学習したことがありません。ですから哲学を背景にいっちゃんさんが言う、「間という言葉を契機に、意味をずらして、人と人との関係性の重要さ、そこに神の計らいを感じたのだと、聖書の言葉を、さかば様が主体的に読み替えた」ことを理解できなかったのでしょう。
ですから正直に言うと、難しいことは分かりません。
しかし、次の行を忘れないように、毎日生きていくつもりです。

マタイによる福音書 22章 37-39節
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
これが最も重要な第一の掟である。
第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
新共同訳から

そして聖書に書いてある約束を信じます。

ありがとうございました。

投稿: のんち | 2007/01/13 21:27

>のんちさま
2度もコメントいただいてありがとうございます。
うーん、うまく説明ができていないのでしょうね。個人の集まりとしてのコミュニティでなく、目に見えない磁場のような「場」、それも最高の「場」としてのコミュニティをイエスさまが、語られていたことが、新鮮だったのです。いや、正確に言うと、そうとも取れることを言われていたことが新鮮だったのだと思います。
言い換えると「私は在ると言うものだ」と全ての存在そのものと言われた神が、その一人子を通して、日本的な考えも包み込まれていたことに感動したのだと思います。

投稿: さかば(管理者) | 2007/01/13 22:26

 アメリカに住んでいます。ルカ17・20-21
はクリスチャンにとってとても重要な意味を持つ聖句ですが、英訳では、”the Kingdom of God is within you"つまり「神の国はあなたの内にある。」と訳され、アメリカの人々の間では文字通り、一人一人の人間の「内部、中」に存在すると解釈されています。これは残念ながら、「聖書は神の御業で、聖霊によって全ての言語に誤り無く訳されている。」という主張に大きな疑問を投げかけるものかもしれません。しかし、英訳が本来のヘブライ語の訳に忠実だとしても、一人一人に神の国が内在するという考え方は、仏教で全ての衆生の内に仏界が内在するという法華経の教えに繋がるものがあり、大変に美しい表現だと思います。全ての人々の内に例外なく神の国の種子が宿っていると人々が気づけば、きっと戦争もなくなるのでしょうね。

投稿: シヅ | 2009/02/27 14:46

>シヅさん
興味深いご指摘ありがとうございます。

何種類かの日本語訳を確認したところ、"within"に関しては、「中に」「内に」「間に」と分かれていますが、"you"はすべて「あなたがたの」となっています。これは、20節の"Some Pharisees"(TEV訳)を受けてのことだと思います。

問題は「あなたがた」が個々をさすか全体を指すかですが、フランシスコ会訳の注釈によると、「教父たちの多くは『あなたたちの心の中にある』と解釈しているが、神の国はイエズスと弟子たちの働きによって、すでに『あなたたちの間に』現実に存在すると解釈する方が一番適している(11・20参照)。」となっています(11・20は「ベルゼブル論争」の一節)。元々議論のあるところのようですね。勉強になりました。

投稿: さかば(管理人) | 2009/02/27 21:43

さらに英語の聖書も調べると、withinだけではなく、in、inside、with、amongと色々あるようです。下記で[update]の左で聖書を選ぶと確認できます。
http://www.biblegateway.com/passage/?search=Luke%2017:20-21;&version=51;
もともとが色々な意味にとれる言葉なのかもしれませんね。

投稿: さかば(管理人) | 2009/03/02 23:10

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