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2007/01/21

見劣りする部分をいっそう引き立たせ

今日のミサのことばの典礼では、神の言葉との出会いが描かれていました。第一朗読の「ネヘミヤの祈り」(ネヘミヤ8・2-415-6,8-10)は、バビロンから帰国した人々によって神殿が再建され、人々が律法に再び触れた喜びが描かれています。第2朗読の「一つの体、多くの部分」(一コリント12・12-30)は、一つのキリストのからだであり補い合うべきだという言葉が教会の人々に示されます。そして福音朗読の「献呈の言葉/ナザレで受け入れられない」(ルカ1・1-4,4・14-21)では、ナザレでのイエス・キリストの最初の言葉が描かれています。

このうち、もっとも印象的だったのは第2朗読でした。各自の能力や役割の優劣を論じ合うコリントの教会に当てたこの手紙に、キリスト者としてどうあるべきか、教会はどうあるべきかを考えさせられました。

神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。

タラントンの教えのように、手は手として、耳は耳として、与えられた能力を活かすほか、お互いに補い、苦しみ、喜べと書かれています。そして「ほかよりも弱く見える部分が、かえって必要」とされています。さらに、こう書かれています。

神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。

皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。

教会では色々な方が奉仕されています。典礼、掃除、建物管理、広報、バザー、などなど。時間や能力の問題で、悪いと思いつつも、私にはできないことばかりです。しかし、この言葉は勇気を与えてくれます。はたから見て見劣りする信者であっても、神様はそれをいっそう引き立たせて体を組み立ててくださるのでしょう。

どうしても目の前の課題に追われ、ついつい教会の運営に目がいきがちです。しかし、無理をすることなく、それぞれの能力に合わせて奉仕しろということなのでしょう。私も無理な活動をすることなく、私に可能なことの中で最も引き立つ活動を続けることにします。神様は全てご存知なのですから、、

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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コメント

こんにちは。
私もこの内容について書いたのでトラックバックさせていただきました。
「無理をする事なく、それぞれの能力に合わせて奉仕」、まさにそうだと思います。
私も、まだ求道者とも言えないような立場ですが
無理をせず教会に協力していければいいな、と思います。

投稿: ソラ | 2007/01/22 21:35

コメントありがとうございます。
そうですね。洗礼に向けて燃えていたり、教会の皆さんに悪いと思うとついつい無理をしてしまいますが、それよりも神さまとの関係が長く続くほうが大事だと思っています。
ソラさんにも、そろそろ神さまのお呼びがかかるかもしれませんね。

投稿: さかば(管理者) | 2007/01/22 23:19

洗礼について、以前は「早く受けたい〜」と思って1人心の中でじたばたしていたのですが、最近は神様にゆだねようと思えるようになりました。

焦っているうちは、神様も「もっと落ち着きなさい」と後ろから見守ってらっしゃるのかもしれないですね。
ぼちぼち、お声がかからないかな?なんて(笑)

投稿: ソラ | 2007/01/23 21:18

>ぼちぼち、お声がかからないかな?

もし、その気持ちがあるなら、相談されたほうが良いですよ。神父さまのお考えによりますが、私はダメもとで相談してOKでした。

投稿: さかば(管理者) | 2007/01/23 23:15

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» 年間第3主日 [みぜれれ。]
今日は午後から所属しているアマオケの演奏会があって、朝9時から ゲネプロがあったので、早起きして1ミサに行きました。 第1朗読のネヘミヤ記で、「夜明けから正午までそれを読み上げた」という 部分を読んだとき「そ、そんなに・・・!」とびっくりしました。 「聞いて理解することのできる年齢に達したものは皆いた」ともあるので それだけ神様を求めていたっていうことなのかなあ?? 第2朗読ので「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました」という部分を読まれたときに思ったのですが... [続きを読む]

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