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2006/11/01

デスノートに見る人間の傲慢さ

DEATH NOTE デスノート 前編(goo 映画)をTVで見ました。なかなか考えさせられる作品でした。

デスノートは、そこに名前を書くだけでその人間が死んでしまうノートです。死神が落としたデスノートを拾った主人公は、理想の社会をつくろうと法律で暴けない犯罪者をデスノートに書きます。

人々は主人公を「キラ」と呼び、社会の救世主として英雄のように扱いました。しかし、そんな「キラ」にも警察やFBIの手がのびてきます。それまで犯罪者だけをデスノートで殺し、地上に楽園を作ろうとしていた「キラ」でしたが、自身を正義とし、正義に反するものは悪であると、FBIの捜査官までも殺します。

そして、追っ手が迫る中、敵の目をそらすために、人を殺し、ついには大事な人までも殺してしまいます。

このお話は、想定のユニークなところ、「キラ」と探偵L(エル)の知恵比べ、死が目の前に迫るドキドキ感が売りなのだと思います。しかし、話の展開とともに変化する主人公「キラ」の心が気になりました。

最初のころの「キラ」は、犯罪者が裁かれないという社会の問題を解決しようとしていました。人を殺すことは良くないですが、自分の能力を社会に生かそうとする姿勢は、本人が言うように「正義」ではないとしても、そこには理解できるものがあります。

しかし、人の死を扱えるという一つの能力を使っているうちに、他の人間よりも優れていると思い、自分は「正義」で社会を支配するのだと考えます。そして、警察に追われるようになると、犯罪者以外も「正義」の敵として殺しだしました。これはいくら正当化しようとしても、偽善です。

探偵Lもキラを捕まえるために、死刑囚の命を利用します。お互いに「正義」といいながら人を殺す人間たちの姿を見て、死神は

「人間ておもしろ!」

と言います。お互いに自分こそが正しいと言い、相手は悪だと言う、自分を中心にしか見ることができない人間は、愚かな生き物に見えたのでしょうね。

そもそもやったことの善悪はあっても、それがその人間の善悪であるとは思えません。人間は間違いを犯すものです。過ちを犯した人に接するときに重要なことは、怒り、裁くことではなく、よく理解し、ゆるすことだと思います。

悪いことをするには理由があり、悪いことしかできない人にもその背景があります。人の善と悪を単純に決め付けるのではなく、お互いにより良く生きられるようにしていくべきだと思います。

また、人は自分が少しでも勝っている、あるいは、誰かが劣っていると、優越感に浸って偉い人になったつもりで行動してしまいがちです。そして、自分の悪いところは見ずに、他人の悪いことを非難してしまいます。

このように考えていて、暴君ネロを思い出しました。犯罪者にも暴君ネロのようにその理由があり、他人を裁こうとする人には暴君ネロのような傲慢さがあると思いました。

聖書にこのような言葉があります。

人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。(マタイ7・1)

誰の心にも死神はいます。いつでもデスノートを渡そうとしています。デスノートを開き人を裁こうとしたとき、そこにはきっと「おごり」があります。傲慢に生きる道ではなく、謙虚に生きる道を選び取りたいと思います。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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» デスノート映画:Lお菓子食べすぎ(笑 [悪いブログニュース。]
デスノート (映画)は、前後編の2作で合わせて制作費20億円だったはず。映画だけで届くかな? [続きを読む]

受信: 2006/11/08 14:33

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