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2006/11/14

さびしい律法学者

日曜日のミサの福音朗読は「律法学者を非難する/やもめの献金」(マルコ12・38-44)でした。前半は、律法学者が服装や挨拶されること、教会の上席、宴会の上座を望み、やもめの家を食い物にし、見せかけの祈りをすることをキリストが非難されます。後半は、一人のやもめが100円ほどのお金を賽銭箱に入れたことをキリストが「誰よりもたくさん入れた」とほめられるお話です。

後半のお話が有名ですが、説教では前半の律法学者について語られました。いわく、外見にとらわれている律法学者は「さびしい」とのこと。その言葉に心打たれました。外見にとらわれることは、業(ごう)であり、傲慢であると思っていましたが、それは寂しいことだったのです。

人より上に見られたい、人に認めてほしい、自分は優れた人間だ、そんな思いは、さびしい思いだったのです。そう、別に勝つことが人生の目的でないのです。人生の目的は幸せになることです。頑張っても頑張っても満たされないのは、目的が間違っているからです。

律法学者はたぶん優秀なのでしょう。人よりも知識が豊富で、人よりも美しい祈りをするのでしょう。そして、徐々に地位も高くなったのでしょう。しかし、いつになっても欲望は果てしなく、いつになっても満たされないのです。

地位が高くなったとき、気付けば友人はおらず、まわりには媚びる人しかいないかもしれません。ちょっとした失敗で、立場を失うかもしれません。これまで友人と思った人が、厳しく責め立てるかもしれません。

そんな状況をさびしく思ったとき、満たされたいと思ったとき、そのときこそ全ての人を愛で包んでくれる神が必要とされるときなのでしょう。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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