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2006/08/29

言は神であった - 聖書の分かち合い -

所属教会の聖書の分かち合いに参加しました。少人数でしたが、充実したひと時を過ごせました。

毎月第3土曜日の夜にあり、翌日のミサで配られる「聖書と典礼」から福音書を中心に意見交換をします。参加する前は1時間程度かと思っていましたが、あっという間に2時間経っていました。

今回の福音書は「永遠の命の言葉」(ヨハネ6・60-69)でした。

まず、お祈りをして分かち合いが始まります。一人が朗読して、各自自由に思ったことや気づいたことを話します。

最初に話題になったのは、弟子たちが

「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」(ヨハネ6・60)

と言った理由です。これは解説にもあるように、イエス様が、

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。(ヨハネ6・54)

といわれたからです。ここは、聖体拝領のことを言われていると思いますが、最後の晩餐の前のお話なので、理解できなくて驚いたのではないか。でもこの前には「命のパン」(ヨハネ6・22-59)のお話もあるので、たとえ話と受けとっても良いのではないかなどを話しました。

読んでいると、62節は結構不思議な一文です。

それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。(ヨハネ6・62)

なにを意味しているのでしょうね。私は主の変容にあたる記述がヨハネ書にはないので、それに相当する記述だと思いました。

65節は、さらに難解です。

そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」(ヨハネ6・65)

じっくり読むと、「こういうわけ」はどういうわけかが気になります。そこで、前の63-64節を読み直します。

命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。(ヨハネ6・63-64)

すると、「信じない者」という人間の行為と「父からお許し」という神様の考えが、矛盾するような気がしてきます。しかも、肉を食べろと言われたはずなのに「肉は何の役にも立たない」といわれます。かなり混乱してきます。

すると、「初めに言があった」(ヨハネ1・1)と書かれていたことに気づきます。そこで、ヨハネ書の最初の部分「言が肉となった」(ヨハネ1)を読むと、

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(ヨハネ1・1)
                  :
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。(ヨハネ1・14)

と、あります。つまり、言葉は神あるいは御心で、御心がイエスさまとなり、われわれのところに来られた。「肉を食べ」というのは、その言葉を信じるということで、「血を飲む」と言うのも出エジプト記にあるような契約を意味するのではないか、と思えます。

すると、「父のお許しがない」とは言葉を受け入れないことで、御心に反するので受け入れてもらえないと言うことではないかと思えます。

このように読んでいくと、難しい構造も少しわかったような気持ちになります。

ほかにも、弟子たちが離れていったとき、イエス様はどんな気持ちだったか?引きとめようと思わなかったか?いや、イスラエルを再興してくれると誤解されているほうがイヤだったのではないか。といった議論がありました。

また、最後のペトロの言葉も話題になりました

「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(ヨハネ6・68-69)

と言う部分は、リーダにふさわしい。いや、イエス様の言葉の意味はわかっていなかったに違いない。調子の良いところもあるから。いや、最初の出会いも簡潔だったので、本当に信じていた。などの意見が出ました。

全体としては、翌日のミサで神父様が言われていた、信じることの重要性や、主日の御言葉にある御聖体の説明と受け取るべきなのでしょうね。

自宅に帰ってから福音のヒントを確認すると「生き物の命は、その血」(レビ17・14)とされ、「血の中に命がある、だから決して食べてはならない」というのが律法の教えとあります。弟子たちが驚いたのは、こういう背景もあったのでしょう。このあたりは知らないとわからないので、次回は福音のヒントも参考にしたいと思います。

最後はお祈りで終わりました。ここもお祈りで終わりたいと思います。

私たちにすばらしいひと時を与えてくださり、ありがとうございました。今後も御言葉を深く理解して、日々の生活に生かせますように、

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