« 聖クリストフォロ | トップページ | 浄水通教会・大名町教会 - コルベ神父 - »

2006/08/13

聖書 その2

聖書は聖霊の導きの下で、聖霊に動かされ、聖霊に正しく書くように守られて書かれました。しかし、人間的な能力を生かして書かれたものでもあります。

福音書はキリストの死後30年以上経ってから書かれました。そこには使徒の死、口伝えの限界など、聖書が書かれる必要性がありました。そこで使徒の証言に基づいて信仰の核心が福音書として伝えられました。

聖書がかかれる前から、聖書らしきものはありました。ヨハネの福音書が一世紀に書かれたように、時代とともにその必要性から書かれました。

キリストの教えとして、山上の説教などの言葉が残っていたので、それをマタイは書き残した。

警告の言葉として、天の国に入る道は狭く、地獄への道は広い、地の塩、世の光、など、聖書記者が書き残してくださいました。

歴史書、教訓書、預言書(リンク先は「聖書その1」)の「文学類型」があるように、聖書はいろいろな内容に富んでいます。読む際は文学類型を念頭におき、意識し、識別し、見分けて読む必要があります(同様にダビンチコードは小説であり、歴史書ではありません)。

寓話的な内容、詩、歴史、たとえ、伝説、格言など、文学類型にあわせて聖書を正しく読む必要があります。たとえば、創世記は科学書ではありません。宗教書として読むべきです。一日は百年かもしれませんし、千年かもしれません。すべてのものは神の影響で書かれたのです。

そこで、聖書学者や十二使徒の直系である教会の解釈が必要です(プロテスタントは、カトリックでない解釈者による自由解釈に基づきますので、教義が異なります)。

十二使徒の直系である教会の価値と意味は、聖書の権威的・公的な解釈を教えることです(カトリック教会のカテキズム109)。イエスさまがパンを「私の体」といわれたので、キリスト御自身であると解釈します。一旦、体になったものを捨ててはいけません。聖櫃に納め、安置し、病人に分け与えるものです。「最初にことばがあった」というのは、このような神学的な深い意味です。

(カトリック教会のカテキズム105-108)
エマオに向かう二人の弟子に、一人の旅人が「その話は何のことですか」と声をかけました(ルカ24・17)。これは驚くべきキリストのお話です。旅人はキリストで、御言葉を説かれたのです。メシアは預言書に書かれていて、よみがえりも書かれています。

聖書記者が聖書を書いたときと同様に、キリストの御言葉を聞いたとき、私たちの心は燃え、熱くなっていました。それは、心の目を開いて悟らせてくださったからです。

聖書は生きた御言葉です。読んでわからないところも、突然気づくことがあります。聖書は生々しく語られている言葉です。新約聖書、旧約聖書は読むたびに円熟します。広く、深く読みましょう。

毎日一章ずつ読むなど、よく読むことが大切です。キリストの教えや、この世に下りてくださった意味がわかります。

ミサの朗読とき、聖書が掲げられます。これは尊敬の念からです。

|

« 聖クリストフォロ | トップページ | 浄水通教会・大名町教会 - コルベ神父 - »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/138594/11422600

この記事へのトラックバック一覧です: 聖書 その2:

« 聖クリストフォロ | トップページ | 浄水通教会・大名町教会 - コルベ神父 - »