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2006/05/27

やすらぎへの道-気づきによって「真実の私」になる-

以前紹介した月刊『カトリック生活』に柳田神父が連載されている「日常に響く霊性を求めて」、その29回「不条理と神の愛(5)」を読みました。

この記事で述べられているのは、上座仏教の瞑想を修めた井上ウィマラさんの説明にヒントを得て

「エゴの私」は本当の自分以外のものを自分とみなしてしまうが、私たちが目覚めるべき「真実の私」は本来何ものでもなく「神の愛に満たされた無」である

というイメージを、大空と雲にたとえられています。真実の私は大空のように「透き通っていて静々しく、また穏やかで自由そのもの」とされています。そして「心に生じてくる怒りや悲しみ、不安やイライラ、有頂天や満足などの感情、またやるせなさやわびしさなどの気分、さらに思い込みや決めつけなど、こころの落ち着きや自由を奪ってしまう動きを、大空に湧き上がってくる雲」とされています。

この雲をうまくやり過ごすことができれば、本来の自分を取り戻せます。しかし、エゴの根本にある執着から、「雲に捉われ、それを自分とみなしてしまうことが無意識のうちに生じて」しまいます。そして「自由は奪われ、穏やかな心を取り去ってしまいます」

ここで、2つのことが言われています。一つ目は、素早く雲の存在に気づくために大空から雲を見つめるようにすることです。湧き出したばかりの小さな怒りの雲に素早く気づいてやり過ごします。怒りから離れて絶えず自分を大空に戻すことができれば、どんな雲や嵐(エゴの私)であっても、より大きい大空(真実の私)で包むことできます。そして、怒りと一つになることを避けることができます。

二つ目は、こんな感情(怒りなど)を起こしてはいけないと考えないことです。悪い感情を持った自分を否定的に見てしまうからです。心の中に生じた怒りをあるがままに見つめて、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ」(マタイ5・45)る神の心、すなわち内なる心に対して、「敵を愛しなさい」に象徴される隣人愛によって雲を取り除きます。

この雲に気づかせるもの、それは光です。暗闇の中では、雲と空の区別がつきません。心の中に神の光をあてることで、雲を雲として見分けることができます。

私にとってのキリスト教は、この光のイメージそのものです。かつて、仕事がどうもうまくいかないとき、問題のある人に目が向いてしまいました。そして、その人の責任だという憎しみに捕らえられ、心の中には真っ暗な嵐が吹き荒れていました。そして、苦しみの中でしだいに嵐は大きくなり、その状況を放置する周囲の人にまで怒りを感じてしまいました。心の中は、もう台風のような暴風雨でした。

そんな中でめぐり合った遠藤周作の「キリストの誕生」は、心の中に優しい光を差し込みました。そう、まさに雲の切れ目からさしてきた光でした。本を読み終えたとき、暴風雨の中で固く縮まっていた心に、急に何か光のようなものが入ってきて、幸福感と共に心が緊張から開放されました。

現実的に考えると、感動でドーパミンが活発になって、光のようなイメージを感じたのだと思います。しかし、それは普通の感動とは違う、暖かく力強い何かを感じました。私はこれを聖霊に満たされたと勝手に思っています。

キリストの恵みには様々なものがあると思います。しかし、「エゴの私」に捉われていた私に光を射し、「真実の私」によってそれをやさしく包み込むことができた、すなわち、心の自由が得られたことは、何物にも変えがたい恵みだと思っています。

この光に向かって進むこと、それが私にとっての「やすらぎへの道」なのです。

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