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2006/03/28

運命への道

映画版「いま、会いにゆきます」のDVDを見ました。TVドラマ版は見たことがあったのですが、今回は映画版です。

TV版のミムラさんの不思議感、成宮寛貴さんの優しそうな感じも良かったですが、映画版の竹内結子さんの自然かつ細やかな演技も良かったです。また、TV版のキャラクタとの違いから、はじめはちょっとなじめなかったですが、中村獅童さんもぼくとつな感じが良かったです。

さて、いきなりネタばれですが、このお話は子どもを生んでから健康がすぐれず亡くなった奥さん(澪:みお)の死後に、付き合う前の澪がタイムワープします。そして、帰ってきたと思っている家族との生活のあと、過去に戻った澪が、いずれ死ぬことを知りながら、その未来に向けて歩みだすと言うものです。運命がわかっていても、愛のためにその道を歩む、四旬節にぴったりの映画でした。

さて、主日のミサは「イエスとニコデモ」(ヨハネ3・14-21)でした。この中でイエス・キリストはニコデモに「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」と自らの死を述べられます。そしてその死が、信じるものに永遠の命を与えるものであるといわれます。(引用は日本聖書協会 新共同訳)

愛のために死ぬと言うことは、どちらも同じですが、その思いは大きく違います。澪は未来の家族に触れ、家族の愛を知り、その人生が幸せだったことを確信して、死への道を歩んだと思います。しかし、イエスは弟子たちが教えを理解せず、ついには一番弟子のペトロまで裏切ることを知っています。それは、愛されることのない、一方的な愛です。そして、いままでわかってくれなかった弟子たちが、やがて抱くことになる信仰を、強く信じて亡くなっていかれたのです。

「いま、会いにゆきます」を見た後、ほのぼのとした暖かい愛を感じました。それに対し、聖書の中のキリストを読むと、自分の罪深さを感じたり、一人だけの苦しみが救われたような気持ちになります。そんな偉大な神を思うとき、
ミサで聞いた「神を忘れて生きることが罪ではないでしょうか」という一言が思い出されます。

(2006年03月28日(火)7:00-13:00ココログのメンテナンスのため、コメント・トラックバックができません)

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