« ご聖体をいただいてキリストそのものになる | トップページ | 苦しい時の神頼み »

2006/02/08

真の自由~十字架の死と復活のもたらす恵み~

「こんなひどい結果はあの人のせいだ」そう思うとき、すでに真の自由を失っています。

月刊『カトリック生活』に柳田神父が2004年1月から「日常に響く霊性を求めて」を連載されています。第11回の「十字架の死と復活のもたらすもの」は、まさに私がキリストを必要とした理由が書かれています。

この記事では「十字架の死と復活のもたらす恵みの一つは真の自由です」とされ、イエス・キリストの「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8・32)、パウロの「キリストは私たちを自由の身にしてくださったのです」(ガラテヤ5・1)を引用されています。

ここで言う「真の自由」とは、したいことをする自由ではなく、本当にすべきことをする自由で、建前の私や正直な私のレベルではなく、真実の私において生きられる自由のことです。

エゴと結びついた心の動きによって、自己防衛的になったり、責任転嫁したり、惨めさに閉じこもたりするとされ、心の奥底の神の恵みである真の自由に近づく方法(めぐみへの協力)として、エゴと結びついた心の動きに気づき、引き離す事が書かれています。

怒りは大きくなると怒りに自分が取り込まれてしまい、感情を爆発させてしまいます。そのような状況に陥る前に、怒りの感情に気づき、そこから自分を引き離すのです。

強い思い込みも真の自由への妨げとされています。「私がダメだから」「あの人のせいだ」と言うような考えが生じた場合にも、直ちにそのような決めつけをおこなっている自分に気づいて、そこから距離をとるべきです。

気づいて距離をおく方法は、「私はそのような思い込みから自由である」「私は決してダメではない、真実の私にある安らぎや喜びが本当の私の姿だ」「このような決めつけから私は自由である。このひどいと感じられる原因が本当はどこにあるのか、落ち着いて丁寧に見つめてみよう」と言い聞かせてゆくとされています。

そして、以下のように締めくくられています。

困難な状況の中で、積極的で建設的な選びをすることはチャレンジです。けれども、このチャレンジを究極的に可能にしてくれるものこそ、復活の恵みとしての内なる神のもとにある自由なのです。

この記事を読んで、私の思っているキリストの恵みを再認識しました。この恵みは、人々のために十字架にかけられ、恨みごとを言うどころか、人々の許しを神に請ったイエスの愛によって、教えられ、救われ、励まされる恵みだと思います。

うまくいかないとき、人はその弱さ、エゴから、ついつい「悪いのは私ではない」と思ってしまいます。そんなとき、キリストを思い浮かべ、自らとのギャップを考えると、如何に自分が小さいか、まだまだやらなければいけないことがたくさんあることに気づかされます。

逆に惨めさを感じるときには、イエスの愛を思い浮かべて生きる元気を得ることができます。十字架の死は人類すべてのために捧げられた大きな愛であり、今も私たちに注がれています。誰も私の味方はいない、もうやっていけない、そう思うとき、少なくとも、神は愛してくれている。その気持ちを持てれば、苦しみは一人だけのものでなく、ほかの人も同じように苦しんでいること、苦しみは勝手な決めつけであることがわかります。

私にとって毎週のミサは、そんな神を思い、自らを振り返るひと時です。

|

« ご聖体をいただいてキリストそのものになる | トップページ | 苦しい時の神頼み »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/138594/8569683

この記事へのトラックバック一覧です: 真の自由~十字架の死と復活のもたらす恵み~:

« ご聖体をいただいてキリストそのものになる | トップページ | 苦しい時の神頼み »