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2006/01/15

神との出会い~年間第二主日 B年~

きょうは「こどもとともにささげるミサ」でした。子供向けのお説教はわかりやすく、神父様の人柄が出ていてお気に入りです。

朗読はどれも良かったですね。第一朗読の「サムエルへの主の呼びかけ」(サムエル上3・3b-10,19)は、のちに預言者となってサウルやダビドに油を注いで王とした少年サムエルのお話です。神の声を聞いたサムエルは3度神に呼ばれ、司祭エリの所に出向きます。2度目までは「私は呼んでいない」と言っていた司祭エリも3度目には、呼ばれたのは主であると気づき、もしまた呼びかけられたら「主よお話ください。僕(しもべ)は聞いております」と言うように告げます。そして、サムエルは、神の言葉を聴くようになります。

福音朗読は「最初の弟子たち」(ヨハネ1・35-42)でした。これは、洗者ヨハネの弟子であったアンデレとヨハネが、イエスとはじめて出会ったときのお話です。洗者ヨハネが歩いているイエスを見つめて「見よ、神の子羊だ」と言い、二人の弟子はイエスについていきます。そして、アンデレは「メシアに出会った」と兄弟のシモン(ペトロ)を連れて行き、ケファ(アラム語の岩、ギリシャ語にするとペトロ)と名づけられたお話です。

この「神の子羊」と言うのは「民の罪をあがなうもの」の意味です。ユダヤの民がエジプトで奴隷だったころ、神がエジプト人の初子を殺そうとしたとき、ユダヤのしるしとして壁に羊の血が塗られました。この過越祭の元になったお話に出て来る羊と同じように、罪をあがない救ってくれる人、つまり救世主であると言うことです。

きょうの福音朗読には「午後4時ごろのことである」と出て来ます。いかにも忘れられないような言い方です。お説教では、神父様が子供のころのお話をされました。神父様が友達と座っていたとき、たまたま近くの教会の神父様が自転車で通りかかり「駅前の教会で、神様のお話をしている」と誘われたそうです。そしてそれは「忘れもしない、4時ごとのことであった」そうです。よくできたお話ですが、神に導かれるような偶然てありますよね。でもそれは、神父様にとっても重要な神さまとの出会いだったんでしょうね。

第2朗読の「聖霊の住まいである体」(一コリント6・13c-15a,17-20)は、「あなたがたの体はキリストの体の一部である」「主に結びつくものは主と一つの霊となるのです」と、自分勝手な振る舞いに対して、キリスト者の生き方を示しています。このように神と共に生きるきっかけとなった「出会い」を大切にしたいと思います。

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