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2005/12/15

洗礼(罪に死にキリストに生きる)と入門式

昨日の勉強会は引き続き「洗礼」でした。
最近、建築関係のニュースが流れていますが、外側が立派であっても、土台が壊れていてはどうにもなりません。昔の木造住宅で言うならシロアリが巣食っていては意味がありません。アダムとイブの罪は、それまでの神との友情を壊し、人間の土台は壊れています。人間の本性は罪にけがれ、虫に食われました。神との友情はこわれ、人間だけでは救われなくなりました。そこで、神はひとり子イエスをつかわせられました。

原罪はこのような人間の本性で、建築事件のインタビューで言っていたように「自分の力ではどうにもならない」もので、これこそ谷底に落ちる人間の姿です。洗礼はこのような原罪と共に自罪(大罪、小罪)を消し、三位一体の神を与えてくれるものです。「罪に死にキリストに生きる」(ローマ6・1-11)に「罪に死んだわたしたちが、どうしてなおも罪の中に生きることができるでしょう」とあるように、洗礼により聖霊の宿ったものは、これまでのように罪をおかし続けてはなりません。

聖書の頃の洗礼は水の中に沈むものでした。これは、この世の罪に死ぬというシンボルで、罪の奴隷にならないことを意味し、同時にキリストと共に死ぬという意味があります。そして、水の中から浮かび上がることは復活と聖なるものをいただくことを意味します。神の命、すなわち成聖の恩恵をうけるのです。このように過去の罪は水に流され、帳消しになります。これは(コリント第1 1・26-31)に「無力なものを選ばれた」とあるように神様の恵みです。

復活祭の前の洗足式の元になった「弟子たちの足を洗う」(ヨハネ13・1~11)お話でペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言ったことは、洗礼を拒む人に似ています。キリストを信じるなら、キリストの定める洗礼を受けるべきです。イエスが「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられたのは、弟子ではないということです。洗礼の恵みは素直に受けるべきです。ただし、信仰が条件です。

「フィリポとエチオピアの高官」(使徒8・26-40)は12使徒の一人フィリポと大蔵大臣のような高官とのお話です。この高官はイザヤ書の説明をフィリポに受けた後、洗礼を受け、喜びにあふれます。これは人に言い得ないようなキリストとの出会いの喜びです。ペトロとヨハネががエルサレムで「罪なき人を裁いた」とイエスのことを説教した際には、悔い改めるため3000人洗礼を受け、この喜びを受けました。

途中、入信を結婚にたとえると、入門式はお見合いにあたり、これを終えると求道者になります。洗礼志願式は婚約にあたり決断を示します。そして入信式(洗礼・堅信・聖体)は結婚式に当たります。3年後になかったことにしてくれと言われても困るとのこと(私に関しては心配無用です)。

さて、今度の日曜はいよいよ入門式です。入門式はミサの中で行われます。最初の聖歌の後、前に出て一列に並びます。そして、他の信者の方に向き、紹介を受けます。そして、祭壇を向き、意思を確認されます。励ましや十字架のしるしを受けた後、いったん席に戻り、通常のミサの朗読が行われます。そして、終盤で再び前に並んで主の祈りの授与などを受けるそうです。神父様の説明では、「成人の入信式」の本を持って前に出ればよいようなので、ちょっと安心です。

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