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2005/12/08

罪の痛悔後に洗礼をうける

今回の勉強会のテーマは引き続き洗礼でした。
まずは「エフェソで」(使徒19・1-7)です。ヨハネの洗礼を受けた弟子たちにパウロが洗礼を与えると、異言を話したり、預言をしました。ヨハネの洗礼は、ヨルダン川の水を用いて改心するものです。自分の侵した罪を痛悔し、罪を認めたのちに、水によってアダムとイブからの原罪、大罪、小罪を清めることで、自分が神を受け入れる心になります。

イエスの洗礼は水だけでなく、聖霊と火を用います。ヨハネの洗礼によって清められた心の中に、三位一体の聖霊が入り義化し(正しいものに生まれ変わり、神の子になり)ます。

このように、私たちの体はキリストの犠牲と言う対価により買い取られた神の神殿です(コリント6・19-20)。

水で清めるという行為は、ほかの宗教にもあります。神社でのみそぎや口をすすぐのも、聖堂の入り口にある水と同じで、清めたいと頑張る行為です。ただし、罪を認める点が異なります。

復活徹夜祭においても、水を清める式があり、聖書にある、紅海をわたったり、ノアの箱舟のように、水で救われることを示しています。

小さな作法にはうるさくても、大きな罪を犯しぬけぬけとする人や、ねたんだり、怨んでも平気な人、などのように人には裏表があります。さらには、ユダのように犯罪を悪魔のせいにする人がいます。欲がはらんで罪を生む(ヤコブ1・15)と言うように、アダムとイブの子孫は毒麦の話のように、良いもの悪いものが雑草のように生えています。

神と友情で結ばれていたアダムとイブは、神のようになれるとだまされて林檎を食べ、その子孫は原罪を背負いました。人間の歴史はカインとアベルのように罪の歴史でした。クリスマスにイエスが生まれ、全ての罪を背負うことでようやく神との友情を復活できるようになりました。

しかし、年寄りのニコデモの話のように、自分が努力すれば救われると思っても、人間だけでは神の国に入れません。人間性が傷ついて弱くなっているからです。シロアリの食った家を直すように、洗礼を受けて神の恵みによって清められなければなりません。

洗礼は神との和解、友情の復活のスタートです。神様からの一方的な恵みや救いを受けることができます。これは天国への保障のようなものですが、安心してはなりません。あやまりをしないように、心する必要があります。
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勉強会のおわりにある自由な時間に、告悔の話題が出ました。教会のおきてにあるように復活徹夜祭までに前回以降の罪を告悔が推奨されているようです。特に罪を犯していない人は神に与えられたタレントを生かしていないことを告悔すると良いそうです。

先日の黙想会後の告悔では、黙想会に来られたよその神父様に人気があり、「楽をさせてもらった」といわれていました。知ってる人には言いにくいですからね。ちなみにどこの教会でも良いそうです。

私はまだ告悔できないので、今日は過去を痛悔しながらお祈りをしてきました。

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