信仰の道に入るということ
ナウエンの心の奥の愛の声を読みながら信仰について考えました。
ナウエンは友人の裏切による苦しみから、信仰への道をふたたび歩みだすのですが、この本に書かれたナウエンの変化から、数学的なイメージがわいてきました。
宗教が無くとも生きていくことは可能です。人生を歩み経験を積むことで、さまざまな定理を手に入れることができます。そして、多くの定理の中から、誰もが知らず知らずのうちに価値観やポリシーなどの公理を、帰納的に導き出しています。
しかし、この公理系はもろく、かつて経験したことの無い出来事によって、現在の公理系と矛盾する定理を見つけてしまうことがあります。このようなとき、人は自らの人生の経験が否定され、人生そのものを否定してしまいたくなるほど苦しみます。
信仰とはこのような時に役立つ、新たな公理系ではないでしょうか?この公理系は心の中にぽっかり空いた穴に合わせることのできる不思議なリングです。リングですから中央には決して証明できない大きな穴が空いているのですが、そのリングにつかまっている限り、それ以上は落ち込むことのないものです。
しかし、これまでの経験で得た定理は、新しい公理系で必ずしも成立しません。信仰を得るだけでなく。新しい公理に基づいて一つずつ検証し、修正していかなければなりません。新しい公理系を中心に一つ、また一つと積み上げていくのです。
この本を読んでいて、信仰の道に入るということは、このようなものではないかと思いました。
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コメント
さかばさんへ:ctです
信仰の道を,数学でいう新しい公理系であるという考え方は,なかなか面白いですね。突き詰めていくと最後は証明できない公理がある。しかし,それを認めないと,すべての定理は崩れてしまうわけですね。数学の先生で(僕も数学の教師ですが),公理のことを,「まあ,神様みたいなものだ」とポロッと言っていた人がいましたよ。
投稿 ct | 2005/11/13 00:27