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2005/11/17

我思う故に神あり

遠藤周作の沈黙を読み終えました。
本のタイトルの沈黙と言うのは神の沈黙をさしています。殉教者が苦しみながら死んでいく際にも、神は沈黙を続けます。廃教の淵に立たされた主人公の神父は、神の顔を思い浮かべながら、なぜ、神は沈黙を続けるかを考え、苦しみます(以下、若干ネタばれ注意)。

最終的に主人公は踏み絵を踏むのですが、それは神を信じられなくなったのではなく、沈黙を続けた神が最後に「踏むがいい」と言うからです。沈黙に描かれているのは、我々を救う神でなく、共に苦しんでくれる神でした。そう、マタイによる福音書の最後に書かれている「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」神でした。

沈黙の主人公は踏み絵を踏むことで、形式的には廃教します。しかし、祖国の司祭や司教たちが認めてくれなくても、キリストは主人公のうちに生きておられる(ガラテヤ2・20)のです。
人は偶像的なものや形式に囚われがちで、神を見失ってしまいそうになります。しかし、心の中に神を思うことができれば、神は存在する。この本はそのように読めました。

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コメント

はじめまして。MAGISさんのサイトから来ました。
「沈黙」…いいですよね。ちょうどプロテスタントからカトリックに改宗した頃に読みました。
司祭や信者を裏切っても、何度も何度もパードレに付いてくるキチジロー、「今まで誰もしなかった一番辛い愛の行為」をして、転んだフェレイラとロドリゴ…
今、また少しずつ読み返していますが、読んでいて涙が止まりません。
人間の弱さと、いえすの愛について深く考えさせられます。

投稿: stella maris | 2005/11/23 00:33

コメントありがとうございます。
おっしゃるように遠藤周作の本には弱い人々が色々な出てきますね。この「沈黙」でも、主人公の見守ってくれるというキリスト観が中心ではあるものの、裏切りながらも赦しを求め続けるキチジローにも、イエスはやさしく見守ってくれていると思います。しかし、主人公と同じように転んだ(廃教した)フェレイラには、神を見失った苦しみを感じました。フェレイラのそばにも神はいるのに、、、

投稿: さかば(管理者) | 2005/11/23 12:34

昨日の夜、「沈黙」を
読み終わりました。怖くなって
しまいました。信者なら
誰もが神の沈黙について
こういう考えを持つんでしょうか。
カトリック信者として、
沈黙を続ける
神の存在を疑う神父の心の描写に
とてもショックを受け、
遠藤周作はどうして
こんなことが描けるんだろう・・・とも
思いましたし
読まなければよかったかなとも
思ったり・・・。

自分のために命を捨てたコルベ神父様だったら、
信仰を捨てて
拷問にかけられる人を
救ったのかな、とか
自分がロドリゴだったら
どうするかな、とか・・・。
「イエスの誕生」や「キリストの生涯」
にも書かれていることと
合わせると、
気持ちが救われるような気もします。

投稿: rintan | 2008/01/10 12:38

>rintanさん
コメントありがとうございます。
確かに怖い表現ではありますが、
必要な時には神様が言葉をかけてくださる、
それまでは、自分に与えられた使命を
考えないといけないのでしょうね。
そのことを示すためのイエスさまの受難で
あったと思います。

どんなに苦しくても大丈夫!
乗り越えられない試練は与えられない。
そう思っています。

投稿: さかば(管理者) | 2008/01/11 01:35

ありがとうございます。
余り悲観的にならずに
構えずにいけば
いいということですよね!
また遠藤周作作品を
読んで行きたいと思います。

投稿: rintan | 2008/01/11 16:18

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