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2005/11/19

あなたは踏み絵が踏めますか?

16世紀にキリスト教徒が弾圧されていたころ、キリストを刻んだ踏み絵によって、キリシタンの判別が行われました。踏み絵を踏まないものは邪教徒として、断罪されるのです。

遠藤周作沈黙を読んでいると、唯物論的な神への信仰によって踏めないようにも読めますし、踏むという行為よりも、それが棄教をあらわすことから、ためらっているようにも読めます。しかし、役人は「形だけでよいから踏め」と言っており、どうも釈然としません。踏み絵を偶像と考えるならば、それを踏むことに問題はないはずです。つまり、踏み絵を踏むとことは、

- 信じているのに信じていないと言う偽証

にあたります。逆に踏まないことは

- 神に与えられた命を粗末にする行為
- 偶像崇拝を認める行為

になると思います。単純に考えると、踏み絵を踏むかどうかはこの矛盾する問題への答えのはずです。

私は聖像は信仰のきっかけとなるものなので、大事には扱いますが、命をかけて守るものとは思えません。どちらかと言うとイエスの言葉が刻まれた聖書を乱暴に扱うほうが気になります(でも、命はかけません)。


踏み絵を踏まずに殉教することは、美しくはあるものの、神に与えられた命を捨てる罪は大きいと思います。ユダに対して「汝のなすことをなせ」とは怒りから言ったのではなく愛ゆえにその言葉を言いました。愛にあふれたキリストは、踏み絵を踏むことをゆるさないほどそんなに心が狭いのでしょうか?遠藤周作沈黙はそんなことも考えさせる小説でした。(このユダに対して言われた「汝のなすことをなせ」は、この本のもう一つのテーマです。決して怒りの言葉ではありません)

(2006.4.24意味が取りにくいので修正しました)

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コメント

さかばさん
遠藤の『沈黙』に関連する記事を書きましたのでトラック・バックします。

投稿: ct | 2005/11/22 00:22

トラックバックありがとうございます。最後のところは逆説的に書いているので、誤解を生んでしまいますね。踏み絵を踏む人の方がより神を理解していると言う意味が書きたかったのですが、、、、
(おかしくなったので、少し書き加えました)

投稿: さかば(管理者) | 2005/11/22 01:37

初めまして。
教会に行ったことはありませんが、キリスト教に興味を持っていて、教会にもそのうち行きたいと思っているものです。

5年前に『沈黙』を読みましたが、あんまり深く考えられず、いろいろ引っかかっていました。ですが、こちらの記事の

『踏み絵を偶像と考えるならば、それを踏むことに問題はないはずです。つまり、踏み絵を踏むとことは、
- 信じているのに信じていないと言う偽証
にあたります。逆に踏まないことは
- 神に与えられた命を粗末にする行為
- 偶像崇拝を認める行為

になると思います。』

という文を読んで、目が覚めたような思いでした。
確かに、小学校の頃から『踏み絵』という言葉は知っていて、さらにある程度の年齢になって『偶像崇拝の禁止』をしていることを知ったのに、その二つを結びつけたことはなかったのです。
『沈黙』に関するもう一つの記事も拝見し、また新たな発見がありました。うまく言えませんが、最近読んでいなかったこの小説に立ち返らせて頂いたことに感謝しています。
それでまたキリスト教についていろいろ考えていきたいと思います。

投稿: 歩美 | 2014/07/30 19:52

コメントありがとうございます。
すこしでもご参考になっていれば、嬉しいです。

投稿: さかば(阪井) | 2014/08/03 20:31

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