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2005/10/08

放蕩息子のイエス

放蕩息子の帰郷を読み出してまだまだ半ばですが、同名の絵に対する作者の数多くの解釈のうち、面白いものをひとつ紹介します。

父の元を去って人間界に降り、愛を与え続け、最後には罪人として裁かれたイエス。服も破れ、ぼろぼろのサンダルはかかとがなくなっている。最期のときに父を賛美したその頭は赤子のように薄くなっている。神の国に帰ってきたイエスを父は温かく迎えます。その様子は神に救いを求める人間の様でもるというものです。

この話からキリスト教を考えると、家族の愛が宗教の根底にあるように思います。親からの独立を願い、反発し、時には悪いこともする。でも、そこには何をしようとも常に見守っていてくれる親の存在。それこそ人が求める神の姿でもあるのでしょう。

しかし、子供として、親として、絶対的な愛を信じ、絶対的なやさしさを持ち続けることは難しいですよね。分かってもらえなかったり、勝手な将来を考えたり、子も親も一人の人間であるがゆえの苦しみがあります。

キリストの誕生に見られる遠藤周作のキリスト観では、イエスの最後を弟子たちが思い続けることで宗教が確立していきます。それまでイエスを支持していた民衆や弟子たちの裏切りに、最期のときまで文句ひとつ言わず、人々の赦しを求めながら父である神をたたえ続けたイエス。人として見ていると理解不可能なその行動は、弟子や私たちに絶対的な神の愛を今も示しています。

神のようにはなかなか行動できませんが、自らの身をもって示したイエスの最期を考えると神の愛がほんの少しだけ自分の中にあるような気がしてきます。

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