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2005/10/19

罪の認識

キリスト教の倫理観には罪の認識が不可欠です。
罪というと十戒や教会のおきてのように具体的なルールを破ることを思い浮かべがちですが、それだけならキリスト教でなくても、ほかの宗教でも良いと思います。

キリスト教の罪にははっきりと認識した上で犯す大罪と、小さな事柄や意識しないで犯してしまう小罪があります。また、行いや怠りといった行動に表れるものだけでなく、思いや言葉といったものも罪になります。さらに、この罪の源(罪源)として、物欲、色欲、どん食、怠惰といった肉体的な欲求のほか、高慢、ねたみ、憤怒といった精神的な欲求があるとしています。このように、意識しないことや、心の中のことを罪とするので、罪を認識できれば、自分の側からだけ考えるのではなく、他の人の気持ちに共感できるようになると思います。

我を捨てて聖人になるのであれば、他の人から尊敬を得られますが、ほかの人が愛を感じて優しくできることは難しいと思います。我によって生じることを罪として認識することで、他の人に共感し、優しくできます。他の人も愛を感じることができると優しくできるようになると思います。

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