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2005/09/21

キリスト教との出会い

仕事がうまくいかなかったんですよ。悪い人はいないんですけど、体制や旗振り役に問題があって、ストレスたまりまくりでした、、。いっぱいいっぱいになると、攻撃的になり、ぎゃーぎゃー言ってしまうんですよね。自分の役割やゴールだけを合理的に考えてもぜんぜんうまく行かないのです。まあ、周りも見かねたのか、負担の少ない体制に変えてくれたりしたのですが、わかっていない人が考えたものはうまくないのですよねぇ。

そんな時に父が亡くなりました。だから宗教に頼ったと言うわけでもなかったのですが、お葬式を挙げると宗教が絡みますよね。うちは浄土宗で、何も知らないで葬式をあげるのもないかと思って、本を読んでみたりしました。一方、家内はどちらかと言うとカトリックですから、公平にちょっと読んでおこうかと、むかし「ぐうたら・・・」で知っていた遠藤周作の本を古本屋で探してきたのです、興味本位で。

宗派に関係なく、キリスト教信者ってすごく固い意思を持っている雰囲気がありますよね。これまでに出会ったひとは優しくて尊敬できる人が多かったですが、心の奥で落ち着いているような感じがして、私に理解できない神様を信じる人はすごいんだなぁ、私には無理だと思っていました。

でも、少なくとも遠藤周作は違ったのですよ。「私のイエス」や「私にとって神とは」に書かれている作者は、母親に連れられて教会に「遊びに」行っているうちに、なんとなく洗礼をうけ、自分の感覚にあわないキリスト教に苦しんでいたのです。その中で、イエスの本当に言いたかったことは何かを自分なりに考え、小説家の目を通してキリスト教を仕立て直していたのです。そこで、遠藤周作が得たキリスト教は弟子をはじめとする人間の罪を一人で背負いながらも、恨み言を言わず、最後まで人々の救済を神に願う「愛」だったのです。

井上神父の「日本とイエスの顔」に寓話と書かれている聖書は、真実とされることを書いたものでなく、私たちに訴えかける内容を間接的に示したものだったのです。そこで示されるものは人の罪そしてでした。私が苦しんできていたものを考えると、確かに私にとって正当な理論でしたが、そこには愛のない、業というべきものでした。その後も遠藤周作の本を読むと、私の罪が良くわかりました。

人の気持ちを考えろ!って言いますよね。でも、遠藤周作の「イエスの生涯」と「キリストの誕生」を読んでいると共感するという言葉がわかったような気がします。霊的な経験とでもいうべきショックを受けました。内村鑑三の定義なら、すでに信者になったのかもしれません。

このようなことで、いつもまにかキリスト教の本を読むようになりました。せっかくの機会ですので、ミサや勉強会にも参加していくつもりです。

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コメント

アーメンです。
素晴らしい証をありがとうございます。

投稿: テケテケ | 2005/09/24 17:57

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