2009/06/28

世にある造られた物は価値がある

今日は久しぶりに所属教会でミサに与りました。少し時間があったので、近くのお寺の前を通ると、父の日に合わせてプレゼントの語源のお話が書かれていました。プレゼントの語源はプレゼンス(presence)、つまり「存在」であるとの記述がありました。あなたが目の前に存在していること、それこそが最高の贈り物なのだと。なかなかよいお話でした。

今年の父の日は、娘がケーキを作ってくれました。とってもおいしいバナナのケーキでした。とてもうれしかったのですが、それよりも娘が元気なこと、息子が元気なこと、それ以上にうれしいことはありません。

調べてみると、プレゼントは新英和中辞典 第6版 (研究社)によると

 ラテン語「前にいる[ある]」の意 (PRE‐+esse [ラテン語の be 動詞]+‐ENT)

と書かれています。さらにesseをしらべるとWikipedia

エッセ(ラテン語:Esse)は、キリスト教のスコラ哲学における神学用語で、神から事物に付与される「存在性」を意味する。ラテン語の動詞 essere(存在する・ある・コプラ動詞)の不定形である。ヘーゲルやハイデッガーの哲学用語としての「ザイン Sein(「存在する」という動詞の不定形)」は、エッセの概念を参照している。

とされています。自分の存在そのものが神様のプレゼントだし、神の前に存在存在できること、つまり信じることができることもまた、プレゼントだと思いました。

そんな気持ちを抱いて、ミサに与ると第1朗読にこんな言葉がありました。

「世にある造られた物は価値がある」

どうですか。すごいと思いませんか。まるで用意されたような聖句です。このような出来事、普通に言うと偶然が重なったとき、そこに神様のご計画を感じてしまいます。

そんな出来事に感動していると、さらに福音朗読ではこんな言葉が読まれました。

「恐れることはない。ただ信じなさい」

本当に神様には勝てません。私は神様に贈られたこの存在を感謝し、導かれる道をただ歩んでいくだけです。「主よお話ください。僕は聞いております。」そんな心境でした。

すると、奉納の歌は典礼聖歌184番「わたしは静かに神を待つ」でした。

 神は私のよりどころ、私の砦、私の救い
 私は決してゆるがない、私の希望は神のうちにある
 私は静かに神を待つ、私の救いは神から来る

わかりました。あせらずに神様を信じいれば良い。ただそれだけでよいのですね。


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2009/06/27

どんな傷だって大切な思い出にきっとできる

NHK連続TV小説「つばさ」。ようやくコメディタッチにもなれてきました。

今日は夫の昔好きだった人を知って傷ついたお話でした。つばさはラジオを通してこう語りました。

 許せないと思うなら痛い傷のままです。
 そのきずがあったからこそ、二人は出会えたのです。
 そう思うことができれば
 どんな傷だって大切な思い出にきっとできる

そして番組の最後のナレーションが入りました。

 傷を癒してくれるのは時間、家族、友達

確かにそうですね。傷があったからこそ、今がある。人生に無駄なものは何一つない。苦しみも悲しみも大切な宝物だと思います。そして傷を癒してくれるのは、時間と、家族や友達でしょう。

でも、本当の苦しみの中で、周りの人さえも信じられなくなった時、最後の希望は自分が生まれてきたことには意味があると言うことです。

自分の存在そのものに意味があり、乗り越えられない試練はない、そんな希望があるからこそ、どんな傷だって大切な思い出に必ずできると思えるのだと思います。

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2009/06/21

「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」

昨日は分かち合いに参加しました。福音は「突風を静める」(マルコ4・35-41、リンク先は日本聖書協会)でした。

イエスに「向こう岸に渡ろう」といわれて、弟子たちは船で移動します。突風が起こり船は水浸しになりました。しかし、イエスは船の最後部で寝たままです。弟子たちが「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」とイエスを起こすと、イエスは「黙れ。静まれ」と風を止めました。そしてイエスは言います。

「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」

すごい言葉です。人生の荒波の中で、苦しいこと、大変なこと、つらいこと、色々あります。神に助けを求めたいこともたくさんあります。でも、神様は言われるのです。

「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」

いつもそばにおられる神様は、居眠りをして何もしてくれないと思うかもしれません。映画のブルース・オールマイティのようについつい神様に不満を感じます。そして、ついつい「急いで助けに来てください」と叫びそうになります。

でも、そんなことはないのです。信じていれば何も怖いことはありません。乗り越えられない試練は与えられないし、苦しいことも全て必要なことなのです。今日から、この言葉を自分に問いかけながら、力強く生きていこうと思います。

「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2009/06/14

「子どもの祈り」と「十戒」

桂教会では、ミサや集会祭儀の時に「子どもの祈り」を唱えます。

とても長いお祈りです。どうしてこんなに長いのかと思っていたのですが、プリントをいただいて、モーセの十戒(リンク先はWikipedia)が中に含まれていることに気付きました。以前、MAGISさんが書かれていたようにカトリックでは置き換えられることの多い、第二戒の偶像崇拝もわかりやすい祈りになっています。子供たちにとってとても良いお祈りだと思いました。

   + 子どもの祈り +

イエス様、ごミサにあずかれたことを 感謝します。

世界の全ての人が 平和になるようにしてください。
病気の人、つらい気持ちでいる人を 助けてください。
私たちの家の人、ご近所の人、学校の皆に、お恵みをお与えください。
私たちが、神様のよい子になれるよう、導いてください。

私たちは、神様だけを 神様として 敬います。
私たちは、いつも神様に向かって お祈りします。
私たちは、神様のお名前を 大切にします。
私たちは、日曜日を 神様の日として お祈りと 人に親切にする日とします。
私たちは、お父さん お母さん おじいさん おばあさんを 大切にします。
私たちは、人を傷つけたり 人のいやがることをしません。
私たちは、からだを 神様の神殿として 大切にします。
私たちは、人の物を とったり こわしたりしません。
私たちは、うそをつきません。
私たちは、むやみに 物をほしがりません。

マリア様、今週も私たちが、あなたのように、美しい心で、よい子でいることができるよう、見ていてください。アーメン。

   +   +   +

いかがでしょうか?

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流れのほとりの木のように - 桂教会の集会祭儀 -

今日は桂教会の集会祭儀に参加しました。集会祭儀と言うのは、ミサと違って神父様がおられず、信者たちだけで祈ります。このため聖変化がなく、もちろん御血の拝領もありません。信者たちで祝い、御言葉を味わい、あらかじめ用意された御聖体をいただくのです。なんとなくキリシタン時代の信者が信仰を守る姿を思い浮かべたりして、結構好きです。

集会祭儀の入祭の歌は典礼聖歌153番「流れのほとりの木のように」でした。

流れのほとりの木のように
神に従う人は実をむすぶ

神の定められた流れに従うならば、時が来れば実を結ぶことができる。認め難い現実も受け入れて、ただ誠実に生きることが実を結ぶことにつながる。そんな思いが浮かぶ歌でした。

神父の説教にあたるお話は「勧めのことば」になります。世の中に数多くある検定の中には聖書検定なるものもあるそうです。そして、その初級には、福音書の数や新約聖書の文書の数を問う問題があるそうです。

簡単な質問であってもついつい間違えてしまうもので、以前、奥村神父の黙想会で「主とは誰か?」と問われて「神さま」と答えてしまったお話をされました。ミサの中で「私たちの主、イエス・キリストによって」といつも言っているのに間違えてしまった。聖母マリアへの祈りも出てこないことがあったと、信仰の薄さを語られて謙遜されていました。

そして、あるミサの中で神父が真剣に祈られていたことを取り上げられ、「私たちの主、イエス・キリストによって」と祈ることの大切さを語られていました。

拝領の歌は典礼聖歌96番でした。所属教会では聖水による祝福を受ける際に良く歌うのですが、御聖体をいただいた後に

この水を受けた すべての人は 
救いの喜びに 声あげて歌う 
アレルヤ アレルヤ

と歌うのも良いものですね。救いの喜びを今日も感じることができました。

神に感謝!

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2009/06/07

お昼寝

仕事がたまっていたけれど、なぜかやる気がおきずにお昼寝。
やかましいTVは消して、ぎらぎら画面のパソコンも消して、
まあいいや、とお昼寝。

目をつぶると、当たり前だけど何も見えない。
聞こえるのは風鈴の音、感じるのは優しい風、
それ以外何も感じない。

ゆったりとしたひと時、
満たされた気持ち、幸せな時。

そっと耳を澄ますと子供の遊ぶ音がした。
アウグスチヌスは子供の歌が聞こえて回心したんだ。
そんなことを考えていると、すぐに聞こえなくなった。

聞こえるのは風鈴の音、感じるのは優しい風、
それ以外何も聞こえない、何も感じない。
満たされた気持ち、幸せな時。

そっと目を開けると、お日様がさしていた。
少し元気がわいてきた。

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あなたが望まれずにこの世に生まれてきたわけではない

NHK連続テレビ小説「つばさ」は、やはりコメディタッチがなじめないものの、今回も良いお話でした。
斉藤由貴(なつかしい!)扮する紀菜子は、自分の名前をかわいいと思っていましたが、本妻の子供が加乃子であることを知り、「鹿の子」は主役だが「きなこ」は脇役だと思ってしまいます。そして、愛人の子供として生まれた自分は望まれない子供だと思い悩みます。

そんな紀菜子を思いながら父が作った菓子「千日草」がありました。それは離れて暮らす紀菜子を思い、その菓子を作ったのでした。そして、本妻は夫の浮気を憎みながらも、ラジオをとおしてこういいます。

「和菓子には必ずそれが世に出た由来がある。どんな菓子にも、生まれるべき理由がある。それは人間も同じこと。あなたが望まれずにこの世に生まれてきたわけではない(略)。そのことを決して忘れてはだめ(略)。」

この言葉、どこかキリスト教と通じるところがあります。世界の創造主である神は、世界の完成に向けて人間を作られました。そして、生まれてくるすべての人を愛されています。すべての人が望まれて生まれてきたのです。

人と人は、ついつい争ってしまいますが、神様はすべての人を愛している、すべての人が大切である。私はキリスト教を通してそう思います。しかし、すべての人がかけがえのないものであることは、宗教に関係なく生きていく上でとても大切なことだと思いました。

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2009/06/06

神の愛に希望を置く

今日は茨木教会のミサに与りました。
福音は「弟子たちを派遣する」(マタイ28・16)でした。説教ではイギリスの無神論者たちが行った広告のお話から始まりました。これは、Good News Collectionの「『たぶん神はいない』というイギリスのバスの広告」で書かれていたお話のようです。「神はいない、だから人生を楽しもう」という広告に対して、私たちは福音にあるように「父と子と聖霊の名によって洗礼」を受けました。私たちのそばには、いつも神さまがおられるのです。というお話でした。

このお話を聴きながら、答唱詩編を歌いながら涙を流してしまったことを思い出しました。

 神の注がれる目は神をおそれる者に
 神の愛に希望をおく者の上に

この歌詞を読んで、感動的とは思いませんか。神の愛に希望を置くものには神の目が注がれている、いつもそばにいる神が、苦しいときも悲しいときも、じっと見ていてくれている。だから、希望を失わない、だいじょうぶだ!そんな気持ちがこみ上げてくるのです。

実はその思いにも理由があります。今月号の心のともしび機関紙のテーマは「光」でした。良いお話ばかりなのですが、その中でも橋本勲神父の「あなたがたは世の光(リンク先で全文読めます)」に感動したからです。

聖書のはじめの「光あれ」という言葉は、世界の出発点出の光で、太陽や月の光でなく、世界の内側にともされた光だそうです。それはすべてのものが本来持っている光です。

ですから新約聖書も「あなたがたは明るく振る舞って、光る者になりなさい」というのではなく「あなたがたは世の光である」(マタイ5・14)と、明確に断言し、宣言しています。

これはエッセイストの三宮麻由子さんが「内なる光に気付けば(リンク先で全文読めます)」にも書かれています。ゲーテのように「もっと光を」と外から光を得ようとしなくても、一人一人の内なる光、神さまに与えられた光をしっかり見つめれば良いのだと思います。

でも言葉ではわかっていても、自信のないときもあります。そこで今日の答唱詩編です。自分の光を見失いそうなときでも、神の愛に希望をおけば神は見ていてくださる。そう歌いながら涙したのです。さらに説教では「いつもそばにいてくださる」とまで言われたのです。これだけ心強い言葉が揃えばもう何もいうことはありません。

「必要なものは与えられる」強くそう思ったミサでした。

神に感謝!

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2009/05/31

めいめいが生まれた故郷の言葉を聞く

今日は聖霊降臨の主日でした。神さまが復活後に聖霊が弟子たちに降り注ぎ、教会が始まった日とされています。第一朗読は「聖霊が降る」(使徒言行録2・1-11)で、炎のような舌が分かれ分かれに現れて聖霊に満たされたお話です。

以前も書きましたが、舌の形は「しゃべる」、火は「愛」を現し、愛の心を持って弟子たちがイエスさまのみ教えを人々に伝えることができる恵みを、聖霊によって与えられられたということを意味しているそうです。

説教では、旧約から現在に至るまでの聖霊の働きが語られました。いつも神さまはそばにおられるのですね。

第一朗読を呼んでいて、バベルの塔(創世記11・1-9)のお話を思い出しました。人間が一つの言葉で話すころ、傲慢になって天に届く塔を作ろうとします。神さまはそれを見て、人間に様々な言葉を与えました。

それが、イエスの昇天後の聖霊降臨によって言葉が通じたのだと思いました。傲慢な思いでなく、神の心を知ったとき、人は心を通わせることが出来るのだと思いました。

先日、私の苦しみを書いたところ、お祈りの言葉をいただきました。一人で苦しむのではなく、苦しみを分かち合ってくれる人がいる、それはとても心強いことです。映画マザーテレサが、海外電話でお祈りをお願いするシーンがありましたが、こんなにありがたいものだったのかと思いました。

人はそれぞれに色々な考えを持ちますが、神の心によればきっと心が通う。そう思いました。

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2009/05/29

救われたことば

今の仕事はかなり厳しくて、時々「もうだめだ!」と落ち込みそうになります。
会社に向かう電車の中のこと、少し抑うつ状態になりました。

つり革を持ちながら、重苦しい気持ちで信仰が救ってくれると期待したときに、ふと思い出したのは二つの言葉でした。一つ目は「乗り越えられない試練は与えられない」、どんなに厳しい状況であっても、それは自分に乗り越えられる試練である。そう思うと少し気分が楽になりました。

二つ目は、「人生に無駄なことは何一つない」という言葉が思い浮かびました。そうです。乗り越えると言うことは、失敗しないと言うことではなく、失敗してもそれには意味がある、と言うことなのです。

どんなに苦しくても、失敗しても、それはその後の人生の糧になる。「日ごとの糧をお与えください」というのは、成功ではないのです。どんなに失敗しても良いのです。誠実に、努力をすれば、それで十分なのです。失敗はその後の糧なのです。

何も怖いことはありません。ただ真摯な気持ちで生きればよいのです。怖がらず、あせらず、誠実な人生を歩めば良い。そう思うと、気持ちが楽になりました。

そして、神に感謝しました。

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2009/05/23

物語の続きはあなたの手の中にある

NHKの連続テレビ小説「つばさ」。時々コメディタッチ名ところがあって、ちょっと違和感を感じながら見ていましたが、今日のお話には、不覚ながら感動しました。

主人公の上司の子供は、亡くなった母親にまかせっきりでした。その子は上司(父親)が「あしたは帰ってくれるんじゃないか」と思い続け、さらにいつも大人たちから「あとで」と言われてはほったらかしでした。そして「『あとで』は『おしまい』なんだよ」と思っていました。

主人公のつばさは「『あとで』は『つづきがある』ということ」を教えるには、上司を子供に会わせるしかないと上司を説得します。この言葉がタイトルの言葉です。

  おきてしまった物語は変えられない

  けれど

  物語の続きはあなたの手の中にある

人生では色々なことが発生します。過去のことは変えられませんが、未来には様々な可能性があります。それは理想どおりの未来ではないかもしれません。でも、なるべく良くすることはできるはずです。絶望や義務感に囚われた苦しみではなく、より良く生きると言う希望に燃える未来があるのです。

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友のために自分の命を捨てること

所属教会の聖書の分かち合いでは、翌日のミサの福音を分かち合います。
先週は「イエスはまことのぶどうの木」の後半(ヨハネ15・9-17)でした。
「これが私の命令である」という言葉で終わるこの福音は「互いに愛し合いなさい」というイエス唯一の掟が書かれています(他の掟は旧約聖書の解説です)。

そして、もっとも印象的な言葉は

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」

です。この言葉は人類のために命を捧げること、あるいは遠藤周作さんの言われるように弟子の身代わりに処刑されることを表していると思います。私はこの言葉を読んで、イシドロ・リバス神父を思い出しました。以前何かを調べていて偶然見つけたカトリック新聞の記事によると、リバス神父はうつ病の方への対応をされていて、うつ病になられたそうです。その時はそんなこともあるんだと思いましたが、つい最近、似た体験をしました。

職場で抑うつ状態になった人とお話をした時です。私がなるべく安心するようなお話をして、その人は少し元気になりました。その直後、一瞬わたしは不安に教われました。それは、とても怖い経験でした。その経験がリバス神父のように心理的なものなのか、それともお話をした人と仕事の関係があったからかはよくわかりません。しかし、リバス神父はもっと苦しい思いをしながらも、苦しむ人と接してきたのだと思いました。そして、それはイエスの言葉を実践するものだと思いました。

そして今日、TVを見ていると忌野清志郎さんのライブをやっていました。忌野清志郎さんは喉頭癌になりながらも、声を失わないために放射線や抗癌剤で治療をし、結果的に癌が転移してなくなられました。転移の前に行われたライブでは、多くの人に元気を与えられたと思います。忌野さんの人生も「友のために自分の命を捨てること」だったのかもしれません。様々な勇気ある人生を送られた忌野清志郎さんのご冥福をお祈りします。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2009/05/10

神に願うことは何でもかなえられます

きょうは久しぶりに所属教会でミサに与りました。第2朗読では

神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。(一ヨハネ3・22-23)

という言葉に驚かされました。愛し合ってさえいればすべての願いがかなうと読めるからです。そんなことを考えていると福音「イエスはまことのぶどうの木」にこんな言葉がありました。

あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。(ヨハネ15・7)

なるほどと思いました。掟に従うと言うのは、ただ何かを守ればよいと言うのではなく、神の言葉を常に心に置かなければならないのだと思いました。説教ではぶどうの木であるキリストにつながるとは「キリストの協力者であり、思いを一つにすることだ」と述べられました。

何でもかなえられる「願い」、それは自分勝手な願いではなく、キリストと志を同じくする「願い」ならば、かなえられるという事なのでしょう。

でも、人生の中で、神の思いに沿わない願いというものもあるものです。その願いも祈り続けることで神の思いに触れ、自分がどうあるべきかを知ることができるのではないでしょうか。そのことを受け入れるということも神と思いを一つにすることであり、つながるということなのでしょうね。

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2009/05/09

イエスは良い羊飼い

Hitsujiこの前の日曜日は色々あって、ミサはお休みしました。でも福音に触れたくて調べると、「イエスは良い羊飼い」(ヨハネ10・11-18)だったのですね。そこで、以前に我が家の聖具(らしきもの)として紹介した「良き羊飼い」を見て思いをめぐらしてみました。

羊は群れで生活する弱い動物です。一匹では、狼と戦うこともできないので生きていくことはできません。でも、はぐれてしまうこともあります。草原で草を食べていたはずなのに、道に迷い、光の差さない森の中に入り込んでしまったり、戻ることのできない谷底に降りてしまうかもしれません。

一匹の羊はウロウロするものの、どこにも逃げ道はありません。まわりが暗くなってくると心細くてたまりません。ただただ耐えるだけ、「耐えるしかないんだ」と希望を失ってしまうでしょう。

「もうだめだ!」そう思ったときに羊飼いは現れます。「もう大丈夫だよ!」きっと、そういってくれるでしょう。羊が元気なら「こっちだよ。おいで!」と言ってくれるかもしれません。でも、身動きもできない状況なら、羊飼いは肩に担いでくれます。

その姿勢はちょっとつらいかもしれません。でも、深い暗闇から抜け出すために、力いっぱい担いでくれています。何も考えず、担がれるまま、闇から抜け出していくのです。

そして、明かりの灯る家に着いたとき、羊は思いました「羊飼いは神さまにちがいない」と。

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2009/04/30

負けを認める

20年ほど前のことです。自動車事故に遭いました。
渋滞する4車線の道路にT字に接する細い道から右折しようとしていました。運良く譲ってもらって前に出たところに、ゼブラゾーンを走ってきた車が突っ込んできました。

先には大きな交差点があって、そこの右折レーン目指して車が走ってきたのです。相手は遠方かつ友人の車とのこと、自分の車は自分で修理するいわゆる「持ち持ち」で決着しました。せっかくのお出かけだったのに納得が行かない気持ちでしたが、相手が飲酒運転でないと、100%相手の責任と言うことはありません。

「俺の責任じゃないだろ!」そんなことは良くあります。交通事故なら判例も多く、第3者が入ることも多いのでしぶしぶ納得できます。しかし、人生には納得が行かないこともたくさんあります。

同じような表現に「神さまに負けた」があります。このブログでも何度か使いましたが、それは自分が完全ではないこと、一人で生きているのではないことを認めることです。

誰しも自分の生き方に何らかの自信を持っています。誰にも負けない人生とまではいかなくても、自分はついているとか、まじめに生きてきたとか、プライドのようなもを持っている方も多いのではないでしょうか。

自分はしっかりやっている、だからうまくいく、たまにうまくいかなくても、後悔もほどほどに、別の言い訳を求めがちです。でも、イエスの生き方に比べたなら自分のプライドや正しさなんて大したものではありません。だから、負けを認めることができるのです。

負けを認めれば自分の弱さが、自分のずるさが見えてきます。自分ひとりで生きている人はなく、間違いを犯さない人もいません。負けを認めると、もっと良い生き方が見えてくるはずです。

別の負け方もあります。自分はついていない、だめな人間だと落ち込むことがあります。何をやってもうまくいかず、なぜ自分だけがこんなに苦しいのかと思うこともあるでしょう。

一人で生きていることが、自分を追い詰めてしまいます。生きる意味さえ見失うかもしれません。でも、それはそれで自分勝手なんです。自分ひとりで生きている人なんていません。

誰もが神さまに愛されて、生まれてきました。いつだってそばで、共に苦しんで、共に悲しんでおられます。そして、イエスの生き方を通して、だいじょうぶだよ、わかっているからと語りかけているのです。

負けを認めて、自分がひとりではなく、神様がいるから満たされる、そのことが確認できたなら、たった一人の苦しみから逃れられます。愛のありがたみを感じられます。

自分で生きていると言うのは傲慢、自分ひとりだと思うのも傲慢なのです。誰しも負けは認めたくありませんが、負けを認めることでもっと大切な「希望」と「愛」が(もちろん信仰も)手に入るのです。

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2009/04/27

イエスを通して

今日のミサは、予想していなかったのですが、大司教司式でした(ちょっと驚きました)。
説教は「弟子たちに現れる」(ルカ24・35-48、リンク先は日本聖書協会)でした。説教では、少し前のエマオからの話を振り返られました。

エマオへ向かう道で弟子たちは聖書の話をイエスから聞きました。そして、今回の福音では、「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」聖書のことを語られます。

私たちが聖書を読むとき、人生を歩むとき、イエスを通して、イエスの生き方を通して考えなければなりません。そしてイエスとつながる枝として留まることが大切なのだ。と語られました。

このお話を聞いて、イグナチオの霊操を思い浮かべていました。今、「混沌の中の光り -信徒が歩んだ「霊操」の道」(リンク先はGood News Collection)という本を読んでいるのですが、ここに書かれている体験は、まさにイエスにとどまり、イエスを通して生きることだと思います(もう少し読み進んだら感想を書くつもりです)。

日々生活していると、さまざまな思いがあります。時にこだわったり、感情にとらわれたりしがちですが、イエスを通して見直してみることで、心の自由、心の平和が得られるのだと思いました。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2009/04/23

あらゆる国の人々に宣べ伝えられる

昨日は入門講座のサポートチームのミーティングでした(お茶係りと演奏係を募集中です)。ミーティングと言いながらもそこは教会、次の日曜の福音を分かち合いました。

福音は「弟子たちに現れる」(ルカ24・36-48、リンク先の日本聖書教会で本文が読めます)でした。先週に引き続いて、イエスが現れて「あなたがたに平和があるように」と言われます。そして、今度は魚を食べて亡霊でないことを示されます。そして、旧約に書かれたキリストの復活が実現し、『罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と言われます。

この言葉にちょっと感動しました。イエスはこれまでもその救いが世界に広がると言われていましたが、復活の後にいよいよ宣言されたのです。このときまで、神の救いは(基本的に)ユダヤ人のものでした。しかし、この時から世界に広がり、やがて私のところにまで述べ伝えられたのですね。

神さまのご計画は「すごい!」と思いました。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2009/04/21

「あなたがたに平和があるように。」

土曜日は茨木教会で主日のミサ、夜には高槻教会で聖書の分かち合いをしました。
福音は「イエス、弟子たちに現れる/イエスとトマス/本書の目的」(ヨハネ20・19-31)で、ミサの説教では鍵がかかっているにもかかわらず、真ん中にイエスが現れたことを取り上げられ、かたくなに拒否しても神さまが現れると言うことを話されました。分かち合いでは、イエスとの出会いが話題になり、色々な人のイエスとの出会いを分かち合いました。

この福音の中で、私は「あなたがたに平和があるように。」というイエスの言葉が響きました。この4月から異動になり、仕事がとんでもなく忙しいのですが、なぜか平和です。

以前だったらストレスがたまり、大きな声の一つも出していたでしょう。でも、いまは「しょうがないよね」とか、「気を使ってもらって悪い」などと考えています。体は大変でもなぜか心は平和です。どうしちゃったんでしょうね。とても幸せです。

「幸せ」というと、願いがかなうようなイメージもありますが、心が穏やかなこと、それに勝る幸せはありません。どんな仕事であっても、ありがたくさせていただく、そんな気持ちがあれば、自然と仲間が増えていきます。どれもこれも信仰のおかげだと思います。

この春、娘が新しい道を歩みだしました。緊張することや、ストレスを感じることもあるでしょう。でも、大丈夫だと思います。神様は超えられない試練は与えられません。

息子は、来春からの進路を決めようとしています。第一希望であっても理想の未来でないことが引っかかっているようです。でも、大丈夫だと思います。その時々を大切に生きていれば、必ず得るものがあるはずです。

どんなことがあっても大丈夫です。うまくいっても幸せだし、うまくいかなくても別の未来がある。意地を張ったり、腐ったり、人生を無駄にすることさえなければ、きっと良いことにつながります。

だって「あなたがたに平和があるように。」と神さまが言われているのですから、きっとそうなるに違いありません。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2009/04/15

見えないものを信じる

主の御復活おめでとうございます。
今年の復活徹夜祭は、2回目の代父をしました。急に仕事が忙しくなって、どうなることかと思いましたが、主が備えてくださった(ヤーウェ・イルエ)ようです。

復活徹夜祭では聖書の朗読が多く、所属教会では抜粋して読まれました。創世記からは天地創造と、アブラハムがイサクを捧げようとする所です。天地創造では「光あれ」と神の栄光を示され、7日目に休まれたこと。これは一週間の起源と言われています。

神の命令にしたがってアブラハムがイサクを捧げようとした話は、いよいよと言うときに神が止め、イエス・キリストを示すと言う身代わりの羊が用意されました。そして、その地は「ヤーウェ・イルエ」(神は備えて下さる)と名付けられました。

出エジプト記からは、神の取り計らいによってユダヤの民がエジプトから脱出したときのお話です。エジプト軍に追われていよいよだめかと言うとき、モーセが杖を高く上げると、が海が二つに割れて難を逃れたお話です。人々にかかった二つに割れた海の滴が洗礼を表していると言われています。

イザヤの預言からは、あがないの主が見捨てられることがないことが、パウロのローマの教会への手紙からは、我々が洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものになり、罪に対しては死んでいるが、神に対して生きているというお話でした。

福音では受難から3日目にマグダラのマリアらが墓を訪ねると、すでに墓の石がよけられていて、復活したイエス様の姿を見ることができなかったお話でした。

神様の姿を誰も見ることができません。世界を創造し、完成に導く神、その姿を誰も見ることができないのです。哲学の世界でも神の存在証明が試みられましたが、神は存在するともしないとも証明できませんでした。

しかし、私は神の存在を是とします。神の存在がなく、すべてが偶然であると仮定しても世界は存在しますが、私の存在理由が存在しなくなります。すべてが偶然であるなら、苦しみも偶然、喜びも偶然、すべてが偶然になってしまいます。

神の存在を是としたなら、すべての物事に意味が存在します。すべてのことが世界の完成には欠かせないのです。私が生まれたこと、あなたが生まれたこと、そしてあなたがこの文章をごらんになっていることもすべて意味があります。

人生にはさまざまな出来事が生じます。幸せなことばかりではありません。苦しいこと、つらいことがたくさんあります。偶然と思うなら自分に生じる不幸な出来事を不条理だと思うでしょう。人生の幸せに傲慢になり、不幸に落ち込むことでしょう。

神の存在を認めたなら、苦しい出来事に意味を考えることができます。すべてのことに意味があるのだからと、その時の自分にしかできないことや最善の策を考えます。幸せには感謝して、不幸な出来事もチャンスに変えることができます。神の存在が世界を変えるのです。

所属教会の復活徹夜祭では、21名もの方が神さまを是とされました。苦しみに負けない心を与えられたのです。
洗礼を受けられた皆さん、おめでとうございます。もうだいじょうぶですよ。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2009/04/06

泣く

近所のお父さんに見守られながら子供が遊んでいました。しばらくすると子供の大きな泣き声が聞こえてきました。きっと曲がろうとしたときに倒れてしまったのでしょう、子供が自転車にまたがったまま、お父さんによしよしとされていました。

子供は良く泣きますよね。怪我をしたときや迷子になったときも泣きます。とにかく、自分の思い通りにならないときに、すぐ泣きます。

でも、たまに迷子の子供などは、必死に親を探しているときは一切泣かずに、親の顔を見つけると、ほっとしたのか急に泣き出すときがありますよね。心理学的なことはわかりませんが、一人で頑張っているときは泣くどころではなく、心が開放されたときに感情がこみ上げてくるのでしょうね。

ミサに与っていると、なぜか涙が出てくることがあります。きっと日々の生活で緊張していた心が開放されて、涙が出てしまうのでしょうね。すべてをわかっている神様に、いまさら打ち明けたところで何も変わりません。しかし、そこでは何も頑張る必要がなく、無理に自分を取り繕う必要もなく、苦しみや悲しみ、すさんだ自分の心を解放して、神さまのよしよしを願うことで、ほっとして、心が開放されるのでしょう。

神に感謝!

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2009/04/05

棕櫚の葉を手に持って♪

Sakura今日は枝の主日、ミサ前に枝をいただいて行列するつもりが電車に乗り遅れてしまいました。妻と険悪な雰囲気になる中で、ふと思いついて河原町教会に行きました。

河原町教会は10時からなので、時間に余裕があります。少しだけ遠回りして高瀬川沿いを通りました。「人生の全てのことに意味がある」とは、こういうことを言うのでしょうね。4月から仕事が忙しくなったので花見はあきらめていたのですが、見事な桜、桜、桜、言うことなしです。妻の機嫌も直りました。

河原町教会は所属教会のような枝を持っての行進はありませんでした。入り口で枝をいただいて、司祭が水で祝福しながら入堂するというスタイルです。この枝、所属教会ではソテツなのですが、河原町は「棕櫚」でした。教会によって、ソテツ、棕櫚、オリーブのところがあると聞いていたのですが、初めての経験です。すばらしいお恵みです。人生には色々な問題が生じますが、その時々にベストを尽くせばきっと良いことに繋がると思いました。

さて、今日の福音は3人の朗読+会衆でイエスの裁判から受難までを描いたものでした。特に会衆の「十字架につけろ」という言葉は、自分たちのためにイエスの受難があったと思わせる言葉でした。

説教では、神の子が受難にあった理由を語られました。神の子でありながら、なぜ裁かれたか、それはその自由さえも与えるほど、神が愛されているからだ、との説明に、納得しながらも「『ぶどう園と農夫』のたとえ」(マルコ12・1-12)を思い出していました。

農夫たちは主の農地で得た収穫を自分たちのものにして、送られてきた僕たちを袋叩きにしたり、殺したりします。最後に『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』(日本聖書協会 新共同訳)と息子を送るのですが、愛する息子も殺されてしまいます。

この話は、イエスの受難を表していて、私たちが「十字架につけろ」といったのも、自分たちの傲慢さからだったのだと思いました。

また、カトリック生活の4月号の「マリアと共に歩む十字架の道行き」(pp.15-19)という記事も思い出しました。この記事は、聖母マリアの視点での十字架の道行きです。その第1留にはこう書かれています。

第一留 わが子は死刑を言い渡されます。
 わが子を見たのは、金曜の朝早くでした。昨夜、連れ去られて以来、初めて見るわが子でした。肌はあざに覆われ血を流していました。私の心は痛みの剣に刺し貫かれ、涙が頬を伝いました。
ピラトが、「なぜこの男を十字架につけたいのか」と群集に尋ねると、私の周りにいた人々は皆、叫びました。「十字架につけろ!」と。私はそこに立ったまま、静かに泣いていました。

黙想
 主イエスよ、あなたが宣告を受けたとき、あなたの母が感じられた苦悩は私の想像を超えています。今日、私が心の中に憎しみを抱き、人を裁くとき、私は、「十字架につけろ!」と叫んでいるのです。あなたとあなたの母に、悲しみの涙を流させているのです。
イエスよ、私をゆるしてください。


閉祭の歌「しゅろの葉を」の3番はこんな歌詞でした。

Eda2009
棕櫚の葉を手に持って 救いの主を迎えよ
喜びのほめうたを ホザンナと声高く

み苦しみの日近く われらの罪のために
いえにえとなり 献げたもう主


いよいよ来週は復活祭です。四旬節の残りの日々を大切にしたいと思います。

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2009/03/30

一粒の信仰の種

日曜は久しぶりに河原町教会でミサに与りました。
福音は「ギリシア人、イエスに会いに来る/人の子は上げられる(ヨハネ12・20-33)」(リンク先は日本聖書協会、聖書が読めます)でした。説教では、

一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。

という言葉を取り上げられました。朝顔も種を植えただけでは大きくならない。水をあげ、肥料をあげることで、種の殻が死に、芽が出て大きくなり、やがていろいろな色の花が咲く。イエス・キリストの死という恵み、それによっていただいた一粒の信仰の種に水や肥料を与えましょう。というお話でした。

このお話を聞いて、確かに水や肥料が大切だと思いましたが、ふと妻のことを考えました。うちの妻は仕事で疲れるようで、いつもお祈りをしているからと、あまりミサに与りません。しかし、たまにミサに与ると、とても幸せそうな顔をしています。

考えてみると、人それぞれに、水はけが異なるのかもしれません。あまり熱くなりすぎて、肥料を与えすぎると根腐れすることもあるかもしれません。人付き合いと同じように、神さまとの程よい距離というのがあるのかもしれませんね。

そんないい加減で良いのかという気持ちもなくはないです。しかし、神さまはいつもそばにいてくださるし、すべてご存知、慈しみ深い神さまに対して何も心配することはありません。適度の水と、適度の肥料、うまく育てることが大切なのでしょう。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2009/03/28

人の子が栄光を受ける時

所属教会の入門講座に時々休みながらも3年半ほど通いました。仕事帰りに通っていたのですが、残念ながら4月からは仕事の関係で通えなくなりました。最後の入門講座も、日曜の福音「ギリシア人、イエスに会いに来る/人の子は上げられる(ヨハネ12・20-33)」(リンク先は日本聖書協会、聖書が読めます)を分かち合いました。

この福音には「時」という言葉が何度か出てきます。イエスの3年間の公生活の中で有名なのは、「悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1・14-20)にある

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1・15)

ということばでしょう。また、「カナでの婚礼」の言葉も有名です。

イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」(ヨハネ2・4)

日曜の福音では、ついにこの時が近づきます。

イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネ12・23)

これは、主が上げられ復活される時です。不条理な運命を受け入れることで、永遠の生命に生きる時なのです。

ついに私の時も満ち、入門講座は卒業です。自らの運命を受け入れて社会に派遣されるのです。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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「貧者の一灯」と「やもめの献金」

仏教の説法に「長者の万灯より貧者の一灯(リンク先は日本辞典)」というものがあります。お釈迦さんが来られるからと金持ちは1万もの灯篭をともし、貧乏な老婆はなけなしの(物乞いしたとか、髪の毛を売ったという説もあります)お金で一つの灯篭をともしました。すると金持ちの明かりは明け方には燃え尽きていたのに、老婆の明かりはさらに輝きを増していたというお話で、わずかでも真心のこもったものが尊いというお話です。

このお話は、以前ここの勉強会の記録にも書いた「やもめの献金(リンク先は日本聖書協会、本文が読めます)」と似ています。こちらは、貧しいやもめ(未亡人)が献金する様子を見たイエス・キリストが、

「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(マルコ12・43-44)

と言われるお話です。これは、福音のヒントにあるように生活のすべてを差し出したことを、神はわかられているのです。

このような目で貧者の一灯を読むと、キリスト教との違いに気づきます。貧者の一灯では、なぜ明け方でも灯りが灯っていたのかが書かれていません。聖書の中の話なら「カナでの婚礼」(ヨハネ2・1-12)のように、神さまの力によって奇跡がおきますが、貧者の一灯では書かれていません。たぶん、世の中の道理としてその事実を悟るのでしょうね。

これに対して「やもめの献金」では、全知全能の神が介在します。誰もわかってくれないほんの少しのお金ですが、「生活費を全部入れた」と神はわかってくださるのです。それは、どんな人間であっても、その存在を喜び、受け入れ、愛してくださる神です。

この二つの話は、ともに量ではなく、心だという点で一致しています。しかし、そのことを知るだけでなく、神に思いをめぐらして幸せに満たされるという点がキリスト教らしいと思います。

もちろん、仏教にも慈悲という言葉はありますし、慈悲によるという解釈も可能でしょう。一度、「貧者の一灯」という言葉で検索してください。そこには、さまざまな解釈があります。本来の意味と異なる解釈は容易に見つけることができますが、慈悲に結びつく言葉は、なかなかありません。それは、根底にあるメッセージが異なるからだと思います。

全知全能の神は世界を造られ、完成に導かれている。すべては良いもので、私もあなたも良いものである。神はすべてを受け入れて愛してくださる。だから私たちも他の人を大切にして受け入れ、愛し合うことができる。そんなキリスト教の根底にあるメッセージを、私は「福音(Good news)」だと思います。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2009/03/21

急いで助けに来てください

復活祭(イースター)前の四旬節に、一度はするようにといわれている十字架の道行きは、元々はエルサレムでイエスの受難の道のりをたどるという信心でした。それがエルサレムの治安の悪化に伴って、エルサレム以外の土地でも行われるようになりました。

洗礼を受けた年から十字架の道行きの信心をしていましたが、感じ方は毎年違うものですね。以前は「信仰の弱い私を助けてください。」という言葉が響いていました。信仰の入り口で、戸惑っていたのかもしれません。

今年は、最初の言葉が響きました。

「神よ、わたしを力づけ、」
「急いで助けに来てください。」

いつもそばにいてくださる神というのは理解しているつもりです。しかし、言いようのない気持ちで心がいっぱいになったとき、心が神様から離れています。この言葉は、神を擬人的に、素直な心の叫びを表現しています。

全知全能の神ですから、そんな私の気持ちなんてお見通しです。でも、気持ちを素直に表現すると、心の中につかえていたものが消えたような気がしました。

わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。(マタイ11・29)

まだまだ学ぶことがあるようです。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2009/03/20

充実した人生を生きることができるように

このブログの管理人さかばは、カトリックの洗礼を受けていますが、このブログにはあまりカトリックの教えにはないことも書いています。特に気になる記事は「私にとって神とは」のカテゴリーに入っています。今回扱う聖書の翻訳は、かつてこのブログで議論になったように神学と強く結びつくもので、異なる意見をお持ちになるかもしれません。様々な個人の意見のひとつとしてお読みください。

今回紹介するのは、コンピュータサイエンスの研究や電子製版ソフトTeXで有名なドナルド・E・クヌース先生の「コンピュータ科学者がめったに語らないこと」(エスアイビー・アクセス)の一節です。この本はMIT(マサチューセッツ工科大学)の「神とコンピュータ」と題する講義の記録です。そこでは、ルーテル教会のクリスチャンであるクヌース先生が長期休暇を利用して行った、聖書のすべての3章16節を調べるという3:16プロジェクトのお話です。

このプロジェクトは、ランダムサンプリングの応用です。すべてを調べることが難しいとき、ランダム(乱数)にサンプルを抜き出すと、全体像を知ることができるというものです。TVの視聴率や政権の支持率なども同じような方法で算出されています。

サンプリングの際に純粋に乱数に従うと、ページ数の多い文書の内容に影響を受けます。そこで、各文章の3章16節を抜き出すという層化抽出方式がとられました。これは、アンケートなどでも年齢層ごとに一定人数を集めるなどされるのと同じ統計的手法です。

さて、なぜ3章16節かというと、序文でもなく、最後でもなく、多くの文書にあるという理由のほか、ヨハネによる福音書の3章16節の

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(日本聖書協会 新共同訳)

という聖句が有名であることから選ばれました。

クヌース先生は、サンプルの聖句に関する文献を可能な限り調べられたほか、聖書に関するリファレンスを利用して翻訳もされました。このヨハネによる福音書3章16節も当初は同じような翻訳をされました。

Yes, God loved the world so much that he gave his only chiled, so that all people with faith in him can escape destruction, and live forever.

大意:そう、神は世界を非常に愛されたので、その唯一の子をお与えになり、神を信じる人々すべてが滅亡を免れ、永遠に生きることができるようにした。

しかし、その後に

  • この福音書の執筆者が文の前方でなく後方をさす特殊な書き方を多用しているので、「神は世界を非常に愛されたので」というところは「神は世界をそのように愛した」とすべき
  • 欽定訳聖書で「永遠の命を持つ」と訳されるところを「永遠に生きる」としてしまった

という反省をされています。特に2番目はマタイ、マルコ、ルカの3福音書では、「永遠に生きる」という意味になっているのですが、ヨハネによる福音書の17章3節では

永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。(日本聖書協会 新共同訳)

とされています。つまり、「永遠の生命」は「神の国」や「天国」に近い意味だそうです。これを、哲学者のパウル・ティリヒは

永遠の生命とは、「今現在」の贈り物である。つまり、キリストに耳を傾ける者は、すでに永遠を手にしているのだ。そういう人間は、もはや時間に駆り立てられることがない。

と述べ、さらに発展させて「永遠の現在」について

今日、永遠の生命を生きることができ、それが今も中断することなく続いている流れ-本質的に時間を超越したもの-である

という考えを示しているそうです。クヌース先生はこれがヨハネによる福音書で「永遠の生命」が意味している内容であり、「やがて」を意味するだけでなく、「現在も暗示する」とされています。

これらを踏まえて改定されたのが、以下の翻訳です。

Yes, this is how God loved the world: He Gave his Only Child; So that all People with faith in him can Escape destruction and Live a full life, now and forever.(カリグラフィーからの転記)

大意:そう、このように神は世界を愛された。その唯一の子をお与えになり、彼を信じる人々すべてが、破綻を逃れて、今も永遠も、充実した人生を生きることができるように。

私が神に出会ったこと、それは破綻から逃れ、充実した人生を送るためだと思うと、感動しました。

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2009/03/16

ほかに神があってはならない

日曜のミサは、第1朗読「十戒」(出エジプト20・1-17)の奉仕をしました。「聖書と典礼」を見るといつもより小さな字で、行間を詰めて何とか見開きに入っている長い御言葉です。

ミサが始まる前に朗読台の御言葉を確認しました。長文だけあって3ページに渡っていたものの、段落ごとに行間が開いていて読みやすくなっていました。朗読奉仕前の確認は重要です。翻訳が異なるときや、今回のようにページをめくらないといけないときもあります。あらかじめ確認しておくと、読み間違えたり、読み忘れたりすることなく、ページをめくるときにもあせることがないのでお勧めです。また、マイクのスイッチも確認しておきました。

十戒は

あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
あなたはいかなる像も造ってはならない。

という言葉から始まります。

私たちは、世界を完成に導く神を信じているのですが、ついつい別の神様を作ってしまいます。自分の願いがかなうような、そんな都合の良い神様を作ってしまいがちです。しかし、福音「神殿から商人を追い出す/イエスは人間の心を知っておられる」(ヨハネ2・13-25)に

イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。

とあるように、私たちの弱い心はすでにお見通しです。自分のことだけを願っても、都合良くいくわけがありません。この春、いよいよ私は人生の転換点を迎えることになりました。こんなときは誰しもが不安を抱くものです。しかし、世界を完成に導く神の御心を信じて、一歩ずつ前に進みたいと思います。

思い起こせば、朗読奉仕を最初に頼まれたときも、入門講座でお世話になった方からあらかじめ確認しておくことを教わりました。世界の完成に向けて「神は備えてくださる」のです。明日のことまで思い悩むことなく(マタイ6・34)、神を信じて毎日を大切に生きたいと思いました。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2009/03/10

おまえだから - 四旬節黙想会 -

今年の四旬節黙想会は神言会の西経一神父をお招きして、「回心と復活」というテーマで行われました。東京の晴佐久神父とならんでもっとも「説教」のうまい神父(リンク先はGood News Collection)と言われるだけあって、ミサの後の講話にも多くの方が参加されました。

失礼な表現かもしれませんが、武田鉄矢さんの母のイクさん、あるいは、綾小路きみまろさんを彷彿させる語り口で、何度も笑い、そして涙ぐみました。その良さを表現できるほどの文才がないのが残念ですが、内容をまとめておきます(長文なので見出しを付けました)。

◎「鳥」でなく「空の鳥」

「変わらないことを喜べるお話」と最初に述べられて、最初に語られたのは職場の中高生のお話です。西神父いわく「かわいい」学生たちにあいさつすると、入学当初は「おはようございます」ときちんと挨拶するのですが、そのうちに「ます」だけになり、最後は「す」だけになって、すれ違ったあとに陰口までたたくようになるそうです。

しかし、西神父は犬や猫じゃないからと、生徒たちを怒らないそうです。人間だけにそんな時期があるからです。

「空の鳥をよく見なさい。」(マタイ6・26、日本聖書協会 新共同訳)

とイエス・キリストは言われましたが、それは「鳥」ではなく「空の鳥」を見るのです。人だけでなくその背景を見るのです。

授業を終えて職員室に帰ってくるなり、教科書を机に「バン!」と置き、「ダメなクラスだ!」「ダメな生徒だ!」という先生がおられます。そんな先生には「生徒が寝るのは、疲れているか、授業がつまらないからだ」と諭されるそうです。良い授業は内職の手を止め、上を向き、口をポカンと開けさせることができます。眠っている子はおこさない。その背景があるのです。

勉強をするとその背景が見えてきます。「私はタヌキ、私はキツネ」それだけではわかりません。文章を読めばわかりますが、部分ではだめです。「今日、二人でうどん屋に行きました。 『私はタヌキ、私はキツネ』」うどん屋の話かもしれません(笑)。

西神父のお母さんが亡くなられたとき、工作の授業で手が進まなかったそうです。それを先生はとがめ、最後には「作れと言っているでしょ!」と髪の毛を掴んで怒られたそうです。西神父は家に帰って、亡くなった母親に訴えたそうです。そして、事実を知った先生は、翌朝、校門で出迎えて、謝られたそうです。

「鳥」でなく「空の鳥」、「花」でなく「野の花」を見るのです。

◎知ると背景がわかる、心が優しくなれる

そんな西神父のお話に、疑心暗鬼な学生たちから「実際に見せてください」と言われ、とあるカトリックの幼稚園で年長さんに研究授業をされたそうです。学生に見守られて行われた授業は、園児が大騒ぎして大変だったようです。幼稚園の先生の協力で園児が落ち着くと、ようやく授業が始まりました。

「雨が降るのはどうしてかな」そんな質問に子供たちはしばらく沈黙しました。そして、誰かが「くも」と言いだすと、全員で「く~も、く~も」とまた大騒ぎに、、、、。

でも雲は降った雨が上にいかないとできません。「じゃあ、雲はどうしてできるのかな」「年少さんならオニが上にあげると思うけど、年長の君たちはどう思う?」その瞬間に子どもたちは考えだし、授業が成立しました。冷たく見ていた学生さんも、顔色が変わるほどだったそうです。やがて子どもたちは「お日さまが水をあたためるから」という答えにたどり着きました。

それを知ると背景がわかる、心が優しくなれる。点数を取るためじゃない。見えない物を見る力があるから宗教がある。猫にはサンマを漁った漁師の苦労など過程は見えていない。でも、人間は背景を知ることができる。

このお話を聞いて、私はとても納得しました。西神父のおられる学校は、名古屋でも有名な進学校です。スパルタ的な厳しさでなく、このような心があるから、勉強ができるのでしょうね。

◎どうして、その人ですか?

西神父は卒業生たちの結婚式をされることがあるそうです。頼まれると「どうして、その人ですか?」と尋ねられるそうです。

すぐに答えられず、彼女にせかされて「髪が好きだから」と言う人がいますが、それは今だけです。「歯がきれい」「目がきれい」「スタイルがいい」も駄目です。髪は抜け、歯も抜け、目は白内障、重力で体の肉は下がる一方だからです(笑)。

こう言うときは、低い声で(甲高い声ではいけません(笑))

「だって、おまえだから」

と言いましょう。

子供もそうです。成績や頑張っているからでなく、「おまえだから」と泣き叫ぶ赤ちゃんに「よしよし」とする心で愛しましょう。

神さまは「おまえは愛する子」と言われました。神の似姿である私たちも愛されたのです。それがゆるしです。それに気づくのが回心です。

◎偶像を捨て本当の神を信じる

偶像崇拝とは比較と競争のことです。社会は競争だと言われます。年収や有給休暇の日数、会社の大きさ、何でも競い合っています。教会ではバザーでどれだけ働いたとか、病気になって入院しても薬の数や入院年数を競い合います。

美しさや貧しさも比較してしまいます。貧しいから救われるのではありません。ホームレスが天国に行き、社長が行かないのではありません。キリストは貧富の考えを壊すために言いました。それまではお金を納めれば天国に行けるという教えがあって、それを壊したのです。

神さまは祭壇に近いとか遠いとかではなく、「おまえだから」と愛されるのです。偶像を捨て、本当の神を信じる。それが回心であり、復活なのです。

◎取引でなく愛し続ける

西神父が電車で立っていると、席を譲ってくれる子供がいたそうです。周りを見渡して自分だと気づき、年寄りのそぶりで礼を言って座られたそうです。すると、その子が話しかけてきて、なんだかんだとうるさかったそうです。耐えきれずに次の駅で降りて、次の電車に乗り換えたそうです。

働いた後は「地の塩」(マタイ5・13)のように姿を消さないといけません。目立つためではありません。

逆におばあさんがバスに乗ってきて、周りを見渡した後に西神父の前に立たれたので、席を譲ろうとされたときのことです。おばあさんは意地になって座られなかったそうです。

席を譲るのもほどこしで、譲られた席を受けるのもほどこしです。その両方がそろって成立します。

愛はあなたと私です。おまえだからと神は愛されます。そして、あなただからと神を愛するのです。神と被造物は違いますが、愛においては対等です。右をぶたれて左をぶつというような取引ではなく、与え続けるのです。罵られても与えるのです。今日も明日も与えるのです。

ホスチアは小麦から作ります。つぶして、粉にされ、練られ、延ばされ、焼かれ、ちぎられ、そして食べられます。そこにありがたさがあります。

◎愛は大変

昼食の後、質問を受けて話を続けられました。

西神父はお年寄り神父の面倒を2年間見られていました。いわゆる下の世話もされていたそうです。仕事の後で疲れていたのにされました。その神父が他の人の言うことを聞かなかったからです。

できた人は損、苦労が多いのはできすぎた人です(笑)。修道会でも苦労が多いです。能力があるほど忙しいので(笑)。多く与えたものは、多く与えられます。笑顔で話すから聖人です(笑)。

愛は大変です。身を裂き、時間を割き、大変です。それができるのは「愛」ゆえです。そういうときは、信仰が大切です。

十字架は窒息死です。十字架に架けられると横隔膜が下がらなくなり、息が吸えなくなります。見ている人から「吸え!」と馬鹿にされて死ぬのです。

眠るように死んだから天国とか、苦しんで死んだから地獄行きだとか、それでは競争です。「わが神、わが神、なぜ見捨てたもうかと」言った神を信じるものが、天国だ、地獄だと言ってはいけません。

◎ちぎられたパンのように

昔、西神父が病気で入院されていた時、隣で死を目前にした男性がおられたそうです。そして、夜のお仕事をしている奥さんが看護に来られていたそうです。当時は職業に対する偏見もあったそうですが、その女性は仕事帰りに看護に来て、夜に出ていくような生活をされていたそうです。

病室には仮眠用のベッドもあったそうですが、その女性は男性が苦しんだときに気づかないといけないからと、イスにすわり、うつぶせで寝ていたそうです。

あるとき、入院すると費用もかかるので、その男性は

「もう、ブザーを押さなくて良い」

と、死んでも良いという意味のことを言われたそうです。すると女性は

「だいじょうぶ、私が働きます。それが子どもと私の支えです」

と言われたそうです。

人が役に立つから生きて良いとか、悪いとかというのはありません。

三位一体は唯一の神です。それに似せられた人も唯一です。神は「あなたは唯一だ」と言われているのです。

三位一体は、一つがちぎれたものです。クリスマスケーキも切れないといけません。結婚式のケーキカットも「初めての共同作業」と言って笑っていますが、「今日から私はこの人のために身を裂く」という意味です。誕生日のケーキも同じです。子が親に買って、親が身を裂いたことを感謝するのです。

私たちは神に似て作られた唯一のものです。自分を割いて神は与えられました。与えあうとうれしいのです。自分の命を得ようとすると失い、ちぎられたパンのように失おうとすると得るのです。信仰の目で見て捧げてください。

家族も他の人もみんな唯一の存在なんですね。お話を聞き終わったときには、「変わらないことを喜べるお話」とはどういう意味か良くわかりませんでした。しかし読み直すと、見た目や能力でなく、「おまえだから」という唯一の存在を愛すること、それが愛であり、喜べることなんだと気付きました。その心に立ち返ることが回心であり、それによってキリストが復活するのですね。

ミサの説教はこちらをご覧ください。

(この文章はメモを元に書きました。一部、表現が異なったり、聞き間違いがあるかもしれません。あらかじめお詫びします。)

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2009/03/09

これはわたしの愛する子

今日のミサは色々な思いが重なり、とても良いミサでした。

まずは第一朗読。アブラハムが紙の声に従ってイサクを献げ物にしようとすると、神が止めて代わりに雄羊を献げたお話です。このお話に出てくる雄羊はイエス・キリストを表していると言われています。

そう思って読み直すと、このお話は人生の苦しみを表しているように思えます。イサクを献げると言うのは、どうしようもない人生の苦しみの中を表していて、それを神さまが止めたのです。苦しみを止めるためにキリストが犠牲になったのです。人間が、そして私たち一人一人が、キリストに救われる様子を描いた話のように思いました。

そして、福音は「イエスの姿が変わる」(マルコ9・2-10)でした。主の変容と呼ばれている場面です。3人の弟子たちの前でイエスの姿が輝いて、彼らを覆った雲の中から

「これはわたしの愛する子。これに聞け。」

と声がするお話です。説教は黙想会の指導に来て頂いた西経一神父(神言会)でした。

西神父の修道院では、若い修道士から前に座り、後ろの方に年配の方が座られるそうです(西神父は前から3列目あたり)。朝の5時半に起こされて、ついつい、うつらうつらとしていると、後ろから咳ばらいが聞こえてくるそうです。しかし、それが成熟したお祈りであるとのこと。

ミサに出ると安らぎを感じるとか、落ち着くとか、何らかの効き目を期待するのは、初心者やたまに来る人の恵みだそうです。そうでないと来なくなるからです(ちなみに、神さまの声が聞こえたなら、病院に行った方が良いそうです:-)。

朝早くから起こされて、ただ眠気を感じるだけで、それでも行くのが成熟した祈りです。祈っても苦労をするし、嫁と姑が仲良くなるわけでもない。それでも祈るのは、祈りとは何かを理解しているからです。

それは、毎日、朝早くから起きて、子供に食事を作るのと同じです。食事を作っても感謝されることはありません。子供を起こしてあげると機嫌が悪く、食事をしていても不機嫌です。それでも毎日作るのは、それが「愛」だからです。

祈りも同じです。何も得られなくても良いから祈るのが、神への愛です。

福音では、イエスが奇跡を起こしたからではなく、説教をしたからでもなく、単に

「これはわたしの愛する子」

と父なる神が言われます。

赤ちゃんのおむつを替えたり、泣いたら抱き上げて「よしよし」と言う。それと同じ「愛」です。子供が立派だからではなく、無力な子に「よい子だ」と言うのです。だから「私の愛する子」と父なる神が言ったのです。

良い行いをしたから救われるのではなく、「罪人」であるにも関わらず救われる。それが「福音」なのです。

黙想会の記事に続く

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2009/03/02

喜びを感じることができれば自由になれる - ブルース・オールマイティ -

先日見たエバン・オールマイティが面白かったので、シリーズの最初の作品であるブルース・オールマイティ(リンク先はYAHOO!映画)を見ました(以下、ネタバレ注意!)。

うまくいかないと神さまに文句を言う、ジム・キャリー演じるブルースはそんな人間でした。あるとき、仕事の話だと思ったら神さまが現れて「不満があるなら君がやれ」と全知全能の力を与えられてしまいます。水の上を歩いたり、トマトスープを紅海に見立てて二つに割ったり、そんな聖書にある奇跡を楽しんだ後に、彼が行ったのは自分のための奇跡。

しばらくすると、人々の祈りがうるさいからと、すべての願いをかなえたものだから大騒ぎ。多くの人がくじに当選したり、落ち目の球団が優勝したり、そんなこんなで街では暴動さわぎになってしまいます。

途方に暮れるブルースに、「人間ののぞみはきりがない」「人間には奇跡を行う力がある」「自分で行わなければならない」と、神さまはどうあるべきかを説きます。そして、ブルースも神様の苦労を理解して、心を入れ替えるますが、彼は満たされません。様々な出来事の中で彼女を失ったからです。

全知全能ではあっても「人の愛はあやつれない」、その現実が重くのしかかります。ブルースは彼女が毎晩祈っていることを聞き、その祈りを調べます。彼女は、ブルースの幸せを祈っていました。ようやく、ブルースは自分のことではなく、人のことを祈れるようになりました。

彼女のことを祈ったブルースは、傲慢さの呪縛から離れ、ようやく自由になったように思いました。彼女の愛を知り、自由になったのです。そういえば、映画の最初の方で、神さまが神である証明として、ブルースの父親のことをこう語りました。

「彼は労働の喜びを知っていた。自由だった。」

ブルースは放送局で働いていましたが、不満だらけでした。傍から見れば幸せな生活であっても、現状を受け入れることができず、自分のことばかりを考えて、彼女の気持ちも考えていませんでした。

生きている中で、だれでも不満は感じます。しかし、現状を受け入れて喜びを感じられたなら、自分の心から解放されて自由になれるのだと思いました。

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2009/03/01

希望を失うか、希望を見出すか - 心のともしびと灰の授与 -

機関紙「心のともしび」3月のテーマは「希望」です。トップページの曽野綾子さんの「神に救いを求めれば」を読んで考えさせられました。

希望を失うのは、人間の運命はすべて自分の力の結果だと信じている人の特徴かもしれない。実は私たちが自分の運命について関与しているのは、ほんのわずかな部分だけである。

確かに私が生まれてきたことも、生まれながらに持っている長所や健康も、すべて与えられたもの、神様からの贈り物です。その神について曽野綾子さんはこう述べます。

ただし神は、不運や苦しみを与えることがある。一見残酷に見える苦しみによって、その人が以前には考えられなかったような見事な人に生まれ変わることを予測しているからである。

だから人はいつでも変わることができる。絶望から希望を見つけ出すことも不可能ではない。神に助けてくださいと救いを求め続けて、絶望が希望に変わった例は決して少なくないのである。

神から離れて自分一人で生きているつもりになるから、希望を失ってしまう。逆に、神を信じ追い求めれば、希望が見出せるようになるのですね。今日のミサの回心式では、灰の祝福と授与がありました。

「回心して福音を信じなさい」

という言葉が心に響きました。

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2009/02/26

四旬節の食事

復活祭(イースター)前の40日間を四旬節と呼びます。日曜日を入れると46日間になりますが、イエス・キリストが公生活を始められる前の40日間荒れ野におられた(マタイ4・1-11)ことにならって復活祭前の40日間を四旬節と呼んで節制します(旬というのは10日間の意味です)。

この復活祭は2009年は4月12日、2010年は4月4日、2011年は4月24日というように年によって日が移動する移動祝日です。イエスキリストの受難がユダヤ教の過越の祭りの日であり、太陰太陽暦の14日であったことから春分の日の後の最初の満月の次の日曜日(リンク先はWikipedia)に行われます。

復活祭当日にミサが捧げられるほか、前日の夜に復活徹夜祭というミサが行われて多くの成人の方が洗礼を受けられます。ローソクを使ったきれいな式典で、徹夜とは言うもののせいぜい2~3時間です。クリスマスと並ぶキリスト教の大きなイベントですので、これまで経験のない方はぜひ一度ミサにあずかられてはいかがでしょうか。

四旬節には大斎・小斎(リンク先はカトリック中央協議会)というのがあって、軽い断食や肉食しないことが進められています。大斎・小斎の日は、四旬節の始まる日である灰の水曜日と復活徹夜祭前日の聖金曜日です。修道会などでは毎金曜日も小斎の日として肉食をさけているようです。

昔は、四旬節中は肉食が禁じられていたので、その前に謝肉祭(カーニバル)(リンク先はWikipedia)として肉をたくさん食べたようです。Wikipediaによるとカーニバルという言葉は、ラテン語のcarne vale(肉よ、さらば)から来たとも言われています。

同じような言葉で、四旬節直前の火曜日を指すFat Tuesdayという言葉があります。Wikipediaによると、マルティ・グラ(肥沃な火曜日)、パンケーキ・デイ、などとも呼ぶそうです。四旬節直前は、たらふく食べる、卵をかたづけるためにパンケーキを焼くようです。このほかにも、シュロブ・チューズデー(告悔火曜日)とも呼ばれ、ゆるしの秘跡(告悔)によって神からの赦しと和解を得るということが行われていたようです。

ところで、とあるところで断食(大斎)は何時から始めるべきかが議論になりました。いつも12時までに食べておくようにしていましたが、考えてみると教会暦では日没から翌日になります。もしかすると、夕食から始まるのかと疑問に思い、所属教会の神父に確認したところ、

「水曜日は0時から24時でしょ。だから0時からです。」

とのこと。つまり、日没後も12時までなら、Fat Tuesdayを楽しんで良いようです。その話の後、神父はこうも言われました。

四旬節は節制の時です。肉を食べないのは、肉が高価だからやめて、その分のお金を他の人のために使うのです。肉よりカニが高いのに、肉の代わりにカニを食べていては意味がありません。

なるほど、と思いました。四旬節を律法的にとらえてはいけなかったのですね。

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2009/02/23

ミサで自分自身をささげる - 目からウロコ ミサのあずかり方 -

よどみのない気持ちでミサにあずかり、感謝の気持ちで神を賛美できたなら、とても素晴らしいことだと思います。しかし、実際はそんなに心が穏やかなことは少なく、困った時の神頼みではありませんが、苦しくなった時だからこそミサに行くことの方が多いのではないでしょうか?

自分にもある反省点に気づいていたなら、ミサの初めにある回心の祈りで気持ちが楽になるときもあります。しかし、どうしようもない気持ちの時は、この「ミサで自分自身をささげる」ことが役に立つと思います。

この記事は、来住英俊神父の「ミサのあずかり方」(女子パウロ会)を中心に先日の養成講座の内容を元に書きました。この本の良いところはミサの捉え方について、まさに「目からウロコ」なところです。その説明の中で、来住神父のこだわりが書かれていますので、是非お読みください。

今回、書きたいのは8章の「ミサで自分自身をささげる」のところです。ミサというと、キリスト者にとってめぐみです。ミサの中でキリストが自身を捧げ、信者はミサでご聖体としてキリストを受けて力づけられ、派遣されるる。そして、日常の中で信者が社会に愛と奉仕の業をする、そのような恵みを中心とした理解が一般的だと思います。

しかし、実はミサで信者が捧げることもできるのです。ここでいう捧げるとは、自分の持っているもの、自分自身を神に一度預けてしまって、神の思いに従って使っていただくということです。それは、時には自分に降りかかる苦難を寛大な心で耐え忍び、明るく生きていくことかもしれません。また、もし選択が可能であるなら「神の御心にかなう道を選んで、困難があってもその道を進む」という意味になります。

この本では、2つのお話が出てきます。一つ目は今井美佐子さんの「捧げる」に出てくるお話です。 ここに登場する女性は思い通りにならないことの多い人生を「捧げんばね」という美しいことばを語り合いながら、元気に歩んでいくそうです。「どれもこれも、みんな、天国へん近道じゃと思うて捧げるとたい。捧げて、捧げて、生きとるたい。」そのような苦労の中でも明るく生きることのできる信仰は、ミサにあずかり自分自身を捧げ続けた実践の結晶なのでしょう。

もう一つは、恋人との関係をどうするか悩んでいたある男性が、「その人との関係」をミサの中で捧げたお話です。その人は、ミサの中で彼女と自分との関係を、神に一度預けました。迷っていることも含めて、自分の生涯を全部神に預けたのです。すると、ミサの後しばらくして、自由な気持ちで判断できたそうです。このように、ミサの中で自分自身を捧げることで自由になるのです。

ミサ全体を通して自分自身をささげるのですが、まず準備として、供え物としての献金の準備が大切です。それは自分の自由になるお金を犠牲にするのですから、金額は関係ありません。そして、その犠牲がささげられる奉納行列では、自分がそこにいるかのように心を合わせます。そして、奉献文にあるキリストの死と復活を思い起こし、その出来事の力にあずかります。そして、その後に自分を捧げるのだそうです。

ミサで自分を捧げることができたなら、自己中心の壁を破ることができます。不条理な出来事も、神はそのように用いられるのだと受け入れられるようになるのです。ミサの中で自分自身を捧げ、キリストに結ばれたなら、心の自由が得られます。だからこそ、社会のなかでも自身を捧げられるようになるのでしょう。

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2009/02/22

確かな信仰

今日は今月最後のミサでした。教会維持費を払っていなかったので所属教会で与りました。

今日の福音は「中風の人をいやす」(マルコ2・1-12)でした。大勢の人に取り囲まれるイエスの所に、四人の男が天井に穴をあけ、中風の人をつり下ろすお話です。

すごい信仰です。説教で言われたように天井に穴をあけたとき、下にいた人は大丈夫だったか、道を開けてこっちから入ればと言う人がいなかったか、気になるところではありますが、そんなことはお構いなしの確かな信仰だったのでしょう。

その信仰を見て、イエスは罪を赦されます。他の福音では「あなたの信仰があなたを救った」という言葉がありますが、自分の病気が罪によるものだと苦しんでいただろうその人は救われました。

このとき、律法学者は

「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」

と思うのですが、これも正しい信仰です。神以外は罪を赦せないからです。

イエスが語るみ言葉は、「福音のヒント」によれば神の国の福音(マルコ1・14-15)なので

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」

ということのようです。これまでは父なる神と人間は離れていましたが、イエス・キリストとその受難によって神の国が近付くように、み言葉を語られていたのでしょう。

先日「8日目」という言葉を聞きました。復活したイエスがトマスに現れた(ヨハネ20・26)のは8日目だったそうです。これはミサが毎週日曜日、つまり8日目ごとに行われることを表しています。創世記では神さまは7日までしか描かれていませんが、7日目を超越した8日目にミサが行われているのです。旧約聖書の時代が終わり、新約聖書の時代になったのです。

そのイエスの復活を祝う復活祭を前にして、水曜から四旬節が始まります。説教では四旬節の行いは、祈り、断食、ほどこし、と言われました。このほどこしというのは、余ったものを与えるのではなく、身を痛めてより貧しい人にあたえるのだそうです。そして私たちも確かな信仰を持って、新しく生まれるのです。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2009/02/20

素直な気持ち - だんだん -

NHKの連続テレビ小説「だんだん」。今日は、双子の「めぐみ」と「のぞみ」の父親である「忠」とのぞみの育ての母「嘉子」の夫婦喧嘩が山場を迎えました。

嘉子は前妻の再婚話に心穏やかでない忠に嫉妬して、家出をして離婚を申し出ました。忠は嘉子を連れ戻したのですが、結局、離婚届にハンコを押しました。

気持ちが治まらない嘉子がさらに不満を言うと忠は、心の内を全部見せれば良いものではない、言えないこともある、それを思いやるのが夫婦、と言います。そして互いに気持ちを素直に語った後に、ようやく嘉子はすべてを受け入れる事を決意し、仲直りすることができました。

これを見ていて昔のことを思い出しました。それまでは、妻と夫婦げんかをして、離婚を口に出したとしても、離婚届をだれが取りに行くかでもめるところで終了して、真剣に別れることを考えたことはありませんでした。しかし、一度だけ、真剣に考えたことがあります。それまで、お互いにストレスが溜まっていたのでしょう、「こんなに苦しむなら別れた方がましだ」と思ったのです。

さんざん言い争ったあと、一人で何気なくテレビを見ていると、京都の東山にある詩仙堂(リンク先はぶらりと京都)が映っていました。静かな空間に、夏場にもかかわらず涼しい風が吹き抜ける様子を、一発屋の芸人さんは「大人の贅沢」と評していました。喧嘩のあとで気持ちが治まらない私は、家族を置いて一人で出かけることにしました。

とても素晴らしい空間でした。いやなことも忘れて、静寂を一人占めした幸せに浸りました。結婚してからこんな時間を持ったことはなかったなどと考えながら、調子に乗った私は、あらかじめ調べていた鷺森神社(さぎのもりじんじゃ)に行きました。紅葉が美しいことで有名なその参道は、左右から見事な木の枝が迫ってきて、秋の素晴らしい情景が目に浮かぶようでした。

そのときに、ふと思いました「秋には家族で来たい」と。その瞬間に素直になり、自分の気持ちに気付き、負けを認めることができたのです。

私は頑固者です。この時まで「素直」という意味が、よくわかりませんでした。人によっては従順になるという意味で使う人もいますが、それはちょっと違うと思います。やはり、自分の優しい心に従うことが「素直」なのだと思います。

夫婦に限らず、人が二人いれば、価値観も違い、思いも違います。その違いを受け入れなければ、互いを尊重することはできません。自分の心の奥にある仲良くしたいという気持ちに素直になれば、相手を受け入れることができて、新しい関係が始まるのです。

でも、どうしてもうまくいかないこともあります。そんな時は争うのではなく、争わなくてすむ「ほど良い距離」をとって関係を改善する必要があります。それもまた、ひとつの素直な行いだと思います。

しかし、この素直な気持ちにたどり着くことが難しい時があります。思い込みや執着心、自己愛や顕示欲が、素直な気持ちを見えなくさせて、惑わせるのです。そんな時は、その苦しみを神様に捧げれば、きっと素直な気持ちにたどり着けると思います。

「自分を捧げる」に続く(はず)

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«とらわれびとに解放を告げる