2017/02/20

映画「沈黙」 - ダメな自分を受け入れてたくましく生きる -

映画「沈黙 - サイレンス -」を見ました。遠藤周作さんの告解(赦しの秘跡、いわゆる懺悔)共言える原作を読んでいたので、過激なシーンがないかと少しドキドキしていましたが、良い感じで遠藤周作さんの思いが表現されていました。

ソフトウェア業界ではメンタル面で問題を抱える人が増えています。その根底には主人公のロドリゴの苦しみに繋がる問題があると思いました。

ストーリー

徳川の時代になって禁教令が出た頃、音信不通になった神父を追って日本に宣教に来た神父ロドリゴ、踏み絵を踏んでマニラに逃げ延びたキチジローを案内として神父ガルベと共に日本に忍び込み、隠れながら宣教活動をします。

しかし、キリシタンに対する弾圧は激しさを増し、最後には捕まってしまい、棄教を迫られます。ロドリゴは神に祈りますが神の声は聞こえず、棄教しないと他の人間が殺されていまいます。

踏み絵を踏む事を迫られてついに棄教しようとした時、ロドリゴは神の声を聞きます。

遠藤周作さんに必要だったもの

実話を元に描かれたロドリゴは、宣教師としては失格でしょう。この姿は自ら「ぐうたら」と称する遠藤周作さんの人生の写像の様です。教会からフランスに留学させてもらったものの、結核で帰国。しかも、フランスでは婚約者のいる女性と恋仲になるなど、自慢できない過去がありました。

そんな遠藤周作さんが求めたのは、ダメな自分をゆるして、次に進む力を与えてくれる優しい神様でした(注参照)。そのような信仰が遠藤周作さんに世界から賞賛される作品を生ませました。

これは自己肯定感と言われているものです。

次に進むための自己肯定感

信仰に関係なく、人には自己肯定感が必要です。もし自己肯定感が無いなら、理想の自分とのギャップに苦しむことになります。

その結果、自分の責任ではないと犯人探しをして責任転嫁や言い訳をするか、自分はダメだと自己嫌悪から落ち込む事になります。何れにしても現状を受け入れていないので次に進む事ができません。

職場をより危険な状態にしてしまう

自己肯定感は個人の問題ですが、その影響で職場の問題をさらに悪化させ、より危険な状況にしてしまいがちです。

責任転嫁をする人は自分は悪くないと思っていますので、批判しかしません。他の人にたしなめられても受け入れる事ができす、かたくなな姿勢で問題解決に向けた行動を取ろうとしません。

逆に落ち込む人は、迷惑をかけるとか、怒られるからと、問題を報告しないでもう少し自力で何とかしようとしがちです。でも、そもそも問題の原因があまり理解できていないことで問題が顕在化したのですから、問題は大きくなるばかりです。

自分は一人じゃない

「沈黙」の神様は最後の最後にならないと声を聞かせてくれませんでした。しかし、職場は会社という組織活動ですので、一人ではありません。

わからない事は聞けば良いですし、困った時は相談すれば良いはずです。それができないのは、自分や現実を肯定できないからです。

(もちろん、逃げ出さざるを得ない時もあるでしょうが、そのような状況なら、一人で努力するだけ無駄です)

より良い未来をめざす!

現実を受け入れた後の未来は、理想どおりではないかも知れません。しかし、合理的で、自分一人で悩むよりもより良い未来です。

人の助けを借りても負い目を感じる必要はありません。今度は他の人を助ければ良いのです。そうすれば、幸せの輪がどんどん広がります。責任逃れをしている自分、情けないほどにダメな自分を認めれば、人に優しく、社会に貢献できるのです。

ダメな自分を受け入れてたくましく生きましょう。映画「沈黙」を見て、その思いを強くしました。


遠藤周作さんまでのキリスト教は、明治時代の内村鑑三を初めとする厳しいキリスト教でした。キリスト者として生きる事が神の証であり、悪い事をせずに清く生きる事が求められました。

しかし、現実には戦時中に「父と子と聖霊と天皇陛下万歳!」と言わなければ、教会を存続できませんでしたし、闇市に依存するなど法律を破らなければ生きていけない時代だったようです。

そのように誰もが罪の十字架を背負っている時代を踏まえて、遠藤周作さんは傍にいる神の愛と赦しを信仰の中心としました。より愛を重視する考え方は世界的にも注目され、「沈黙」は多くの国で翻訳されて読まれることになりました。

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2016/03/20

あなたは人類にへりくだりを教える

今日から聖週間。四旬節のイースター前の一週間です。

ミサでは会衆がイエスを救うのではなく盗賊のバラバを救えと叫び、最後に「十字架につけろ!」と叫びます。

人は勝手な思いから好き勝手なことをしてしまいます。しかし、人間である限り、間違いを犯し、人を傷つけてしまうことがあります。

福音にこうありました。

「人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る」(ルカ23・30)

また、キリストに救いを求める犯罪者にこうも言いました。

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23・43)

人が自分だけが正しいと思わず、互いを認め、素直な気持ちで接し合えたなら、そこが楽園になるのでしょうね。

アーメン(そうなります様に)

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2015/01/12

ヨハネから洗礼を受けられた

昨日の福音は、キリストが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられるお話でした。河原町教会の説教では「ヨハネが『わたしは、かがんで履物のひもを解く値打ちもない』と言ったように、神であるイエス様は洗礼を受ける必要はなかったが、謙遜して我々と同じように洗礼を受けられた」とお話しされました。

生まれながらにして神、それはキリスト教主流派で大切にされている点です。キリスト教の最初の異端であるネストリウス派(リンク先はWikipedia)は、キリストの人格を認めているからです。

ネストリウス派は中国に渡って景教と呼ばれ、仏教に影響を与えたと言われます。それはそれで良い事だと思うのが、私が仏教や神道でなく、キリスト教を信じたのは、遠藤周作の著作を読んで「キリストに負けた」と思ったからです。人が高みにたどり着く事や神になる事がベースにあるのではなく、自分は足りていないものである事を認めたところから始まるホッとする、心の安らぎを感じたからです。

キリストは人間である洗礼者ヨハネから洗礼を受けられましたが、それは罪を清めるためでなく謙遜であった。その説明にキリストの恵みを思い出しました。

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2014/08/24

パンくず

先週のミサではマタイ15・21~28のカナンの女がキリストにすがりついて、イスラエルでなくても犬の様にこぼれたパン屑ならと神様の恵みをいただくお話でした。

この日は幼児洗礼式もあって、赤ちゃんが洗礼の恵みをいただいていました。我々もこぼれたパンのようなお恵みのお裾分けにあずかって幸せな気持ちになりました。

先日の5つのパンと2匹の魚のお話では、みんなでパンを分けた後にかご一杯のパンくずが残ったとされていました。パンと魚をわけた人々は、洗礼式に立ち会った私達のように幸せで満たされたということなのでしょうね。

IT関係でパンくずというと、Webページの上の方にある

   TOP > アクセス > 地図

という風にホームページからその画面までの経路を示す表示のことを言います。

これは、グリム童話『ヘンゼルとグレーテル』から来たそうですが、ミサ中は「青い鳥」だったっけなどと考えていました。

今日のミサはマタイ16・13-20のペトロがキリストをメシアと呼ぶお話で、説教ではペトロのその後の行動でわかるように、この信仰はペトロが得たのではなく、神様が与えたもので、それは私達がミサに集まる恵みを与えられたのと同じだと説明されました。

ひとは自分の人生をコントロールしていると思って、うまくいけばついつい自信過剰になり、失敗すれば自分はダメだと思います。でも、人生は与えられたものなので、未来を信じて今を誠実に生きていればそれで良いのだと思いました。

さて、上に書いたWebページのパンくずですが、それを辿るとホームページに戻れます。幸せは探さないと行けないものではなくて、青い鳥のように身近なところにすでに与えられているものなのでしょうね。気負ったり、落ち込んだりすることなく、目の前にあることを誠実に果たせばそれでよいのでしょう。

あっ、そういえばグリム童話でしたね。この間違いもお恵みなのでしょう。

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2014/08/03

哀れみ=compassion(同情)

今日のミサの福音(マタイ14・13-21)は5つのパンと2匹の魚で2000人以上を満たしたお話でした。数式で表すとこんな感じです。

  5 + 2 > 2000

#こういうTシャツを作ったと、シスターから聞きました。

このお話は過去にも書いた(その1その2)ので、わかっていたつもりです。しかし、説教を聞いて驚きました。

前半に出てくる「大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた」の「憐れみ」は「compassion」だと説明されました。「compassion」はコンパチに通じる言葉で、同じ心を持つと言う意味だそうです。

憐れむと聞くと、上からかわいそうに思うイメージがあったのですが、そうではなく、神様が同じ心を持たれたのです。

いつも傍におられる神様は、遠くから気の毒に思うのではなく、迷子の子供に話すように目の高さにしゃがんで、共に悲しんでくださるのだと思いました。

5つのパンと2匹の魚のお話は、少ない食べ物で5000人を満たされた奇跡のお話です。でも、共に悲しんでくださる神様を知ることで、心がいっぱいになったのだと思いました。

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2014/05/06

放蕩息子はなぜ出て行ったか?- アナと雪の女王を見て -

アナと雪の女王(公式HPストーリ)を見てきました。ネタバレご注意ください。

この映画を見て初めにイメージしたのはシザーハンズ(リンク先はYahoo!映画あらすじ)です。傷つけるつもりがないのに傷つけてしまう、いわゆる小罪を犯してしまうお話だと思いました。

構成の類似

全体の構成を思い返して印象的だったのは、雪の女王である姉エルサが帰ってきて、皆が大喜びした最後のシーンです。すこし前まで街の季節を冬にしてしまい、大迷惑を受けたはずなのに、みんなの女王が帰ってきたと大喜びするのです。

なかには快く思わない人もいました。しかし、そこには愛がなく、自分勝手な欲望によるものでした。

この映画の構成は放蕩息子のたとえ(ルカによる福音書15章11-32節)に良く似ています。親の財産を分けてもらい、家を出て行ったのに財産を使い果たして一文なしになった放蕩息子。とんでもない息子なのに、父親は大喜びで迎え入れます。その陰で、兄はやっかんだお話です。

映画の特徴

構成的には良く似ていますが、映画ではなぜ出て行ったかが詳しく描かれています。エルサは全てを凍らせてしまう禁断の力をコントロールできずに妹アナを傷つけ、それをきっかけに外界とのつながりを断絶します。

やがて戴冠の時期になり、恐る恐る人前に出たエルサは失敗してしまい、山に逃げ込みます。一人になったアナは、これまで我慢をしていたエルサは気兼ねなく禁断の力を使い、氷の城を作って自由を謳歌します。

しかし、その自由な行動によって、夏なのに街は雪だらけの銀世界になってしまいます。誰にも迷惑をかけないところで自由を謳歌していたはずなのに、知らぬ間に罪を犯していたのです。その罪を赦すことができたのは、真実の愛でした。

放蕩息子に当てはめてみる

聖書の方はとんでもない息子です。

弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。 (日本聖書協会新共同訳 ルカ15:12-13)

このように、ひどい息子だったのに後で赦される、そのようなお話だと思っていました。しかし、雪の女王エルサをあてはめるとイメージが変わります。

もしかすると、言い出すまでの息子には耐え切れない思いがあり、我慢ができなくなり、ついに家を出たのではないか、その後に放蕩の限りを尽くしたのはその鬱積から解放されて、自分一人で生きていけると思ったからではないでしょうか?

わかったつもりで見ていた自分に気付く

放蕩息子は本当に悪かったのか、それを判断できるのは神様だけです。人は、どんなに知っているつもりでも、どうしても一面的な見方をしてしまうからです。

知らず知らず犯してしまう小罪、犯していたのはエルサや放蕩息子だけでなく、わかったつもりになっていた自分だったのかも知れません。

人を裁くなと言いますが、それは禁じられているからではなく、わかっていないからなのかもしれません。

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2013/12/15

人生は心の鏡

聖書で私の最も好きなお話はタラントンのたとえです。能力に関係なく誠実に生きなさいと教えるお話と理解しています。この中で、あまり響かないところが神様を怖がる部分です。

マタイによる福音書/ 25章 24-25節(日本聖書協会・新共同訳)
ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』

この部分は神様を怖がってはいけないと理解していましたが、いろいろな出来事を考えると、この主人とは人生ではないかと思いました。

人生の状況を与えられたのは神様であっても、その状況を理解するのは私達自信です。色々と苦しい状況が起きますが、それを苦しいと思うのは私達であって、神様がそう思わせたわけのではないのです。

映画「ブルース・オールマイティ」にあるように、神様は場を与えるだけで、そこで感じる思いは私達のものです。

今の状況を苦しいと思ったり、無理だと思うのも仕方のない事ですが、それは、そう思ってしまうからです。しみじみ教のように人の思いや行動をしみじみと、そのままに受け止めることができたなら、それは別の思いに変わります。

あーもうやってられない。それは、私の思いです。なんでこんな目に、やめたやめた、ひどい奴だ!、なんとかしろよ、お前の責任だろ、すべて私の思いです。

そんな思いの中でに思い出したのは、タラントンのたとえです。上の聖句の後に出てくるのは、こんな言葉です。

マタイによる福音書/ 25章 26節(日本聖書協会・新共同訳)
主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。…

この僕は、勝手にそう思っていただけに違いありません。なのに主人は「知っていたのか」と言います。それは僕の感じていた思いだからです。

でもその思いは、主人の思いに関係なく勝手に感じていたのではないでしょうか。失敗の経験で、ぐうたらに過ごす事の間違いに気付かせようとしたのかもしれませんし、厳しい状況を与える事で、立ち向かえるような人間に成長することを期待していたかもしれません。

今の状況を、そう思わせているのは私自身だ。私の歩んできた道のりを、再び確認しました。もう大丈夫です。

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2013/05/26

希望はわたしたちを欺くことがありません

ここのところ仕事に疲れ果てて、日曜はゆっくりしていました。ようやく土曜日が休める様になり、(日曜はゆっくりしたいので)土曜の夕方のミサに出かけました。

ミサの第2朗読では「希望はわたしたちを欺くことがありません」(ローマ5・5)と読まれ、福音朗読では「あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(ヨハネ16・13)と読まれました。

ヨハネによる福音書には、この後に「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8・32)という私の好きな言葉があります。それを思い出していると、色々な不満が消えたように思いました。

物事がうまくいかないとき、ついつい不満を感じます。それは現在の状況に対してなのですが、やはりその状況は人が生み出したものです。

その状況をどうするか。ありがちなのは「愚痴」。ストレス発散には一定の効果がありますが、問題は解決してくれません。「希望」がないからです。

そこで、私たちを欺かない「希望」とは何かを考えました。それは問題を解決できるという「希望」です。「神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17・20-21)という聖句とあわせて考えると、不満を言うのではなく、現状についてもっと話し合って共通の認識を持つこと。そして共に歩む事が進むべき道なのではないかと思いました。

福音朗読の続きに「また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」 (ヨハネ16・13)とあるように、希望を持つにはどうすれば良いか、どうすれば豊かな人生を送れるのか、「あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(同上)のは、聖書の言葉だと「希望」を感じることができたのでした。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2012/12/24

「恐れるな」

主のご降誕おめでとうございます。

クリスマスはキリストの誕生を祝う日です。誕生日ではありません。とある神父が言われるには、ベツレヘムでも12月は寒いそうです。ちなみに12月25日は元々ミトラ教のお祭りの日で、キリスト教が吸収したそうです。

今日のミサの福音では天使が「恐れるな」(ルカ2・14)と喜びの時を告げました。この「恐れるな」という言葉、聖書に出ているのはここだけではありません(他にもあります)。

新しい事が始まるとき、過去の事が終わります。これまでは当たり前だった事が当たり前でなくなり、これまで知らない新しい事が始まります。

人生には色々な変化があります。仕事の担当が変わる。部署が変わる。役職が変わる。会社を変わる。色々あるでしょう。それらは、とても恐ろしく感じられる物かもしれません。

しかし、人生が神様に与えられたものならそれは苦しみだけではないと思います。きっと、その先に喜びが用意されているのだと思います。

もしかすると、新しい環境で失敗するかもしれません。だからといって、新しい環境から逃げたり、腐ったりしては何も学ぶ事ができません。

乗り越えられない試練は与えられないと言います。乗り越えられるから試練が与えられる。失敗しても、それを肥やしにできるから試練が与えられるのです。

目の前には色々な出来事が待ち構えています。そこで、神様は言われています「恐れるな」と。

今日の福音の最後にはこう書かれています。

「いと高きところには栄光、神にあれ、
 地には平和、御心に適う人にあれ。」
(ルカ2・14)

神様を認めて、自分中心の考え方を改める事で、心に平和が訪れるのでしょうね。

今日のミサで、気づかされたと思ってここまで書きました。調べてみると、4年前にもこの最後の言葉を書いていました

神様にいつも助けていただいている事を再認識しました。

「きょう私たちのために救い主が生まれた」
(今日ののアレルヤ唱、共同祈願より)

アーメン。クリスマスおめでとうございます。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2012/09/16

わたしは顔を硬い石のようにする

仏教には「犀の角のようにただ独り歩め」と独立して生きていく事が理想だと語られています。今日の第1朗読(イザヤ50・5-9a)の「わたしは顔を硬い石のようにする」はその事を一瞬思い浮かばせました。

しかし、この受難のシーン思い浮かばせる言葉のあとには、キリスト教らしい言葉が続きます。

「わたしの正しさを認める方は近くいます。」
「見よ、主なる神が助けてくださる。」

私たちの神様は、そばにいて、私たちを認め、助けてくださいます。どんなに苦しい時も、信仰を失わなければ怖い者はありません。「乗り越えられない試練は与えられない」と心から思えるのです。

しかし、そんな私たちが最もおそれないといけない言葉が福音にありました。

「神のことを思わず、人間のことを思っている」(マルコ8・33)

という傲慢さ、それは神様に向かう心と反対の思いなのだと思いました。

誰もが幸せを求めますが、自分勝手ではいけません。社会に貢献して、人の役に立つこと、日頃の行いを通して御旨に従うものでなければ、試練を乗り越えることはできないのではないでしょうか?

(引用は日本聖書協会・新共同訳)

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2012/08/05

試練と希望

「死んだ方がましだった」そんなことがあるのでしょうか?
今日のミサの第1朗読ではエジプトから脱出した人たちがそう言います。空腹は人から希望を失うのでしょうか。「必要なものは与えられる」という言葉の通り「マナ」が与えられるのを人々は知らなかったのです。

福音朗読では、逆に満足した人たちに「まことのパン」が大切であることをイエスは説きます。それは、飢えることがなく、渇くことがないものです。

生きているといろいろな不満や欲望があります。それが満たされることはありません。どんなに努力しても決して満たされることはありません。それは「死んだ方がましだ」という試練なのだと思います。

神様に感謝するということは、現状に満足することです。美味いかどうかわからない、ただ飢えを満たすマンナに感謝することです。こんな自分に与えていただいて「ありがとうございます」と感謝するのです。

自分は頑張っている。他の人より良くできる。そんな思いを抱きがちですが、その多くは大した事ではないのです。人が人である限り、完璧ではありませんし、良くない事もしてしまうのです。ほんのちょっと良かったからと言っても、神様に比べれば、ほんののちっぽけな差にすぎないのです。

生きていけるという事は神様に愛されて、必要なものが与えられているのです。その事に感謝し、幸せを感じる事ができたなら、その人生はとても幸せなものになるでしょう。「幸せなやつだ」という言葉がありますが、幸せであればそれはとっても幸せな事に間違いないのです。

生きている幸せを、今こそ感じましょう!それは神の与えられた「希望」なのです。

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2012/03/24

奇跡 - NHKカーネーション -

今週のNHK朝の円族テレビ小説カーネーションのテーマは「奇跡」。病院でファッションショーを開くことになり、モデルは看護婦と患者から希望者を募りました。患者の多くは病気の軽い人でしたが、一人だけ本人の強い希望で末期がんの女性患者が選ばれました。

この女性には二人の子供がいて、告知を受けた時はショックだったでしょう。でもそれを受け入れて、ファッションショーでは素敵な笑顔を見せました。それを主人公は「奇跡」と呼びました。

年をとると老いぼれるけれども、奇跡を起こすことができる。普通は仕事なんて大変なのでやめてしまうけれども、好きなことをやるだけで奇跡が起こせる。主人公はそう言いました。

末期がんの患者も同じです。病気の苦しみだけでなく、死を目前に感じる恐怖、家族と別れなければいけない苦しみ、私には想像がつかない苦しみです。でも、それを受け入れて前向きになれば、素敵な笑顔を見せることができます。それは「奇跡」です。

遠藤周作の描くキリストの最も大きな「奇跡」は受難と復活です。弟子や民衆に讃えられて救世主と呼ばれたイエス・キリスト。しかし、ユダの裏切りをきっかけに、身近な弟子たちにも裏切られ、大きな失望の中で辱めを受けます。しかし、鞭打たれ、十字架を引きずり、処刑されるという苦難の中にあっても、キリストはそれを受け入れ、最期の時まで弟子たちを守り抜きます。そしてそのようなイエスの愛の中に、弟子たちは「奇跡」を感じました。

人がどのように生きるべきか、愛とは何か、自分はなぜ命が与えられて、なぜ死んでいくのか、その答えは苦難の中にあるのかもしれません。耐えられない苦難の中で、現実を受け入れ、前向きになり、小さな奇跡を起こす。そんな小さいけれども、ほかの何よりも素晴らしい輝きのために、私たちは生きているのかもしれません。

昨日、娘が高校を卒業しました。多くの苦労があったけれども、ついに卒業しました。良く頑張りました。おめでとう!

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2012/03/18

ALWAYS 三丁目の夕日

ALWAYS 三丁目の夕日を見ました。

先日、「続」の方を見て良かったので見てみたのですが、こちらの方が良かったです。
貧しいけれども、心が満たされている、そんな状況が描かれています。

最も感動したのは、プロポーズのシーンです。

聖書にこんな言葉があります。

「見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20・29)

見えないものだからこそ、そこに大切な価値があるのでしょう。

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2012/03/04

四旬節の善行

「四旬節には善いことをしましょう!」などと言われることがあって、そういう季節なんだと思っていました。

先日、電車待ちの先頭に並んでいたのに運よく座れたときに、杖をついている人が同じ方向に来てあきらめた様子が視界に入りました。特に何も考えずにその肩に近づき、良かったらどうぞ、とお譲りしました。

そのとき、そういえば四旬節なのだと気付き、一つでも善行ができて良かったと思いました。

そうは思ったものの、何かがひっかかりました。別に善行をしようと思ってしたことではなく、当たり前の行いとして席を譲ったのです。

当たり前のことを善行と言い換えること、これは傲慢だと思いました。どちらかというと「罪」かもしれません。

神の求めることを当たり前に、四旬節を過ごしたいと思いました。

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2012/02/19

東日本大震災被災者のための祈り

今日ミサに与ったカトリック河原町教会では「東日本大震災被災者のための祈り」が祈られています。

あわれみ深い神さま、
あなたはどんな時も私たちから離れることなく、
喜びや悲しみを共にして下さいます。
今回の大震災によって苦しむ人々のために
あなたの助けと励ましを与えてください。
私たちからもその人たちのために犠牲をささげ、
祈り続けます。
そして、一日も早く、
安心で安らかに憩うことができますように。
主キリストによって。アーメン。
母であるマリアさま、
どうか私たちのためにお祈りください。アーメン。

今日の答唱詩編では「神は私を救われる。その慈しみをたたえよう」と歌いました。

アーメン

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2012/02/18

教会のブログとツイッター

もともとfacebookのとあるグループに書いた記事ですが、せっかくなのでここにも載せておきます。

私は成人洗礼です。遠藤周作を通してキリスト教に出会った時に「心のさかば」と言うブログを始めました。それまでもソフトウェア関係のことを書いたブログは持っていたのですが、信仰のことだけを書きたかったので、別のブログにしました。キリスト教の本ことや、入門講座の記事を書いているうちに読者がぼちぼち増えるようになりました。

入門講座を探す際や、出張の際に色々な教会を巡る際に、教会の情報を公開することの重要性を感じました。そこで、所属教会の神父に相談したところ、教会の権威を使わなければよい旨のことを言われました(私は公式でないと明示すれば良いと解釈しました。実際、ミサの与り方などに関しては神学的なコメントもあり、そのスタンスは重要でした)。

そこで、インターネットで教会のことを紹介するブログ「カトリック高槻教会の扉」を始めました。この名前は、あるプロテスタントのクリスチャンが、「高槻教会に行こうと思ったけれども扉が立派過ぎては入れなかった」と書かれていたので、「扉なら私が開けましょう」と言う思いからです。

それが7年ぐらい前の話です。教会内で公式にやろうかともほんの少しは思いました。しかし、それまでのブログの経験から、素早く情報発信することの重要性を感じていましたので、手間がかかり、情報発信が遅れるとの判断から、非公式にしました。非公式ではありますが、公式ホームページがないので教会紹介サイトやイグナチオ教会からもリンクされています。

そうこうする間にツイッターが流行りだし、ブログをしていたココログを更新した際に、連携したつぶやきができるようになったので、ツイッターで@ukons_doorを始めました。つぶやきは、ブログでミサなどの情報を更新した際や福音的なつぶやきのリツイート(自分のフォロアー向けに再公開すること)です。最近はブログを更新する暇がない時に単独でつぶやいたりもしています。

この一連の流れで、多くの人脈を得ることができました。カトリックの方には「心のさかば」を読んでいただいた方も多く、「カトリック高槻教会の扉」をしてしばらくすると、ブログの知り合いだったMr. Good NewsさんからSIGNIS JAPAN(カトリックメディア協議会:バチカン系の組織)のセミナーに呼ばれたりもしました。

そこで高円寺教会の人たちと知り合い、高円寺教会の「おやじの会(1回目2回目)」という集まりにも参加しました。まあ、実態は飲み会のようなものですが、当時の晴佐久神父も参加されたり、信者への間口を広げる場になっていました。

Twitterでは、そんなブログの付き合いとは別に、軽いつながりを持っています。京都で開催されたマザーテレサ展のつぶやきをすると片柳神父がフォローしてくださいました。そのほかにも高槻教会の名前からか、お会いしたこともないカトリックの方がフォローしてくださっています。

教会のブログやTwitterは、福音宣教などという思いよりはタラントンのたとえの実践です。自分にできることを実践している、ただそれだけです。入門講座やミサで感動したなら、それを自分のためにもまとめておいたら、他の人にも喜んでもらえたということです。

Twitterというのは基本が公開で、友人であるかは関係なく興味のある人が眺めるものです。興味のある有名人をフォローしたら、その人が日ごろどのように考えているか、脳みその中をのぞくような感覚を感じることができます。

そのうちに聞きたいことが出てくれば、メンション(@ユーザ名を付けたつぶやき)で聞いてみれば良いと思います。そこから有意義な情報が得られたり、場合によっては知り合いになることもあるでしょう。IT業界では各種勉強会が盛んで、メンションで講師依頼が行われることも多々あります。

実際、私の関わるIT系の勉強会の企画がTwitter上で進められているうちに「あとXXさんがいたら完璧だ」というので、それをつぶやきにコピー&ペースト(非公式リツイートと言います)して、そのXXさんにメンションを送ったところ、たまたま出張が重なって参加してただけたことがありました。

類は友を呼ぶ言いますが、情報発信すると人が集まります。まずは聞く側で初めて、リツイートやつぶやきを少しずつすればよいと思います。私の妻は、かなりITが苦手な人なので、携帯だけでTwitterしています。ほとんどつぶやかず、良い言葉を見つけたらリツイートしているだけですが、いろんな有名人にフォローされていたりします。そんな楽しみ方もアリかと思います。

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2012/02/12

「あ~ぁ」

仕事がうまくいってなくて落ち込んでいるときに、なぜ落ち込んでいるか妻に聞かれました。

「仕事がうまくいっていない」

普通なら、「どうしたの?」とか、「大丈夫?」とか、「頑張って!」とか、言うのでしょう。しかし、妻の答えは違いました。

「あ~ぁ」

一瞬、耳を疑いました。

「なんやそれ!?」

妻は説明しました。

「だって『あ~ぁ』じゃない。だめだったんでしょ、そういう時は『あ~ぁ』って言うのよ」

脳天気な妻の言葉に、最初はふざけているとしか思えませんでしたが、良く考えると確かにそうです。原因を明らかにして失敗を繰り返さない努力は必要ですが、起きてしまったことは取り返しがつきません。現状を受け入れて、この後どうするかが大切なのだと思いました。

子供の頃、大切にしていたものを落としたとき、そういえば言っていました。その場で大声で泣くのではなく、

「あ~ぁ」

そう言うと、なぜか次に進めたんですよね。

「しょうがないや、新しいものを見つけよう!」

そんな風に思えたのは、「あ~ぁ」と言うことで現実を受け入れていたのでしょうね。何か不思議な言葉ですね。

その後、仕事はなんとかましになりました。あきらめるでもなく、いっぱいいっぱいになるでもなく、「やれるだけやればそれでいい」、肩の力を抜いてそんな気持ちに慣れたのも、

「あ~ぁ」

と言う言葉で、理想をあきらめて、現実を受け入れることができたからなのでしょう。

結婚して25年、妻の脳天気さまで神様は用意してくださったのですね。また負けてしまいました。

神に感謝!

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2012/02/06

福音を述べ伝えなさい

今日は一日お休みするつもりでしたが、5年ぶりにお会いできる方が遠方より来られたので、玉造教会で高山右近列福祈願ミサに与りました。

洗礼を受けてまだ5年足らず。洗礼を受けた当初に抱いていた宣教のイメージが変わりつつあります。当初は自分が救われたことを語ることで、キリストに触れる機会が増えて多くの人が救われるという思いを持っていました。しかし、神様に救われる形は人それぞれで、どう救われたかはあまり関係なく、他の人に語るなと言われてもついつい言いふらしてしまった人たちの様に、熱く語ることで大切な何かがあること伝わっていただけのように思います。また、学ぶたびに恵みを感じていたカテキズムを語ることも大切なことではありますが、そのことが頑なな人の心を開くものではないように思います。

最近思うのは、私自身がいかに生きるか、それにによってどう証するかだと思います。最後の審判のお話の様に、神様にするように誰にでも接する、誰もが大切な人として接する。それが大切なように思います。

今日はミサの後、とても幸せな時間を過ごしました。地元の人間としては案内に失敗したりなど、失礼なこともあったのですが、神様に向かい合う人間同志として素敵な時間が過ごせました。日頃、高山右近のことはあまり考えたりしない私ですが、お話しするうちに自然と葬儀の際に棺を担いだ右近を思い出し、その素晴らしさを語ることができました。それは、人が人を大切にすることが神様を証することであり、それこそが最高の宣教であると思えたからです。

年をとると、本当に色々と困難なことが起きます。しかし、どんな時もいい加減な行いをするのではなく、人を大切にすること、そうすれば、それがきっと証になるのだと思っています。

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2011/11/26

優しさは信仰の賜物

全知全能の唯一神を認めるということは、同時に「人間は決して完全ではない」ということも認めることだと思います。このことが苦しみを和らげて、優しさを与えてくれます。

もし、人間が完全になれるなら今の問題点を直し、完全な人間になるべく高みを目指すべきだと考えてしまいます。これはとても厳しい生き方です。

「向上心のないやつはバカだ」という言葉は、夏目漱石の小説だったと思いますが、自分の気持ちを捨てて、あるべき道を選べという義務感を感じさせようとする言葉です。

ルールを守っているなら、自分の気持ちに素直になることに何のためらいが必要でしょうか?自分に厳しくある必要はありません。もちろん、自分を甘やかすことが良いとは思いませんが、誠実に生きていればそれで十分だと思います。

もし、人間が完全になれると考えたなら、2つの問題があると思います。

一つ目は、自分が完全であると錯覚することです。完全になれないとすればそのような錯覚は生じないのですが、バリバリ仕事をしているとついつい勘違いしてしまいます。そして、強気に出たが故にたまたまうまくいくこともあって、さらに誤解してしまう。そして、それはいつかバベルの塔のように破綻して、大きな絶望感を味わうことになります。

二つ目は、人にも厳しくしてしまうことです。自分が完全な人間を目指すだけなら良いのですが、他の人にも完全を求めてしまいがちです。人を見るにつけ、ここがだめだ、あそこがだめだ、と減点法で見てしまいます。悪いところだけ見て、良いところは見逃してしまい、いつしか人格まで否定してしまうかもしれません。そうなると、人間関係がうまくいくはずがありません。

このようにうまくいかなくなるのは、自分やほかの人の能力や努力が不足しているからではありません。もちろんそういう側面もあるかもしれませんが、見方を変えたなら別の世界が見えてきます。

人間は誰しも完全に離れない。完全ではない代わりに、それぞれが生きていくために必要な能力が与えられている。その能力を生かして誠実に生きていけばよい。そう考えてみてはどうでしょう。

自分が完全になれないとすれば、自分一人でトップに立つことはできないでしょう。仮になれたとしてもそれは一時的なものでしょう。そこで、なすべきは自分の能力を伸ばすことと、他の人に協力してもらって物事を進めることです。

もちろんトップに立てるかどうかはわかりません。その組織にとってあなたがトップにふさわしいなら自然とその立場になるでしょうし、そうでないならそれなりでしょう。

その生き方はとても素敵だと思います。自分が上に立つために勝ち続ける必要もなく、人に推されて上に立つのです。追い落とされる心配もなく、皆の協力の下で物事を進められるでしょう。もし、上に立つことがなくても自分の能力を組織に生かすことができるのですから、それなりの充実感を感じられるでしょう。

そして、大きく変わるのは周りの人に対する見方です。自分が完全な人間になれないのですから、他の人に完全を求めるのはお門違いです。他人に欠けているところがあるなら、それを教えてあげるか手伝うかしかありません。

そう思うと、他人の失敗は自分の失敗にないます。うめく教えたり手伝うことができないから、その人は失敗するのです。その人が悪いのではなく、あなたのアシストに問題があったのです。

「XXできないとだめじゃないか」

という言葉が

「XXできなかったのは、私も悪かったね」

という言葉に変わります。

さらに、どうすればうまくいくかと考えることもできるでしょう。不完全な自分が、不完全な他人と共に、どのように協力すればうまくいくのだろうと考えてみてください。

自分ならこれはできる。あの人ならこれが得意そうだ。これは誰もわからないから、みんなで考えよう。そのように、自分を中心とした視点から、組織からの視点で見ることができるでしょう。その途端に、物事がうまくいきだすかもしれません。

今まで駒として見えていた人が、生き生きとした人に見えてくるかも入れません。短所として見えていたことが長所に見えるかもしれません。どう対応したらよいかわからなかったことに一筋の光明が見いだせるかもしれません。

でも、どうしてもうまくいかないこと、難しいことも当然あるでしょう。そんな時も落ち込む必要はありません。なぜなら、人間は完全ではないのです。失敗して当然で、うまくいくことが奇跡なのです。成功は喜び、失敗は次回の肥やしにすればよいのです。

神に感謝!

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2011/10/10

救われて6年

父の死をきっかけに遠藤周作さんの著作を通してキリストを知り、傲慢な自分の心が解き放たれて6年がたちました。

教会の入門講座を受ける中で、腑に落ちなかったのは

「洗礼を受けて楽になると思ったら大間違いだ!もっと苦しくなる。」

神父の言葉です。当時はその意味が良くわかりませんでした。今にして思えば、洗礼は神の国に入るよう努力する約束で、洗礼を受けたからと言ってそれがゴールではない。ということなのでしょう。

洗礼を受けることで罪は清められますが、罪を犯さない人にはしてもらえません。今まで通りただの人ですから、人のことをうらやましく思ったり、欲深かったり、他の人もしているのだから、などという思いは昔のままです。そんなときに、これはだめだ!これは神様の思いではない!などと気付いてしまうわけです。したくてもできないし、もし、判断を誤って罪を犯したなら、その時の自己嫌悪は相当なものです。

洗礼を受けて3年ぐらいはそんなことはありません。毎週教会に行って、いろいろ奉仕して、とにかくこれまでの生活を改めようとしますから、心配はありません。問題は3年を過ぎてからです。

かつて「信仰とは神様を1番におくことだ!」と教わったことがあります。もちろん、神様の思いは優先します。しかし、神様が与えられたチャンスと、共同体での奉仕を選ぶなら、どの内容にもよりますが私は前者を選びます。さらに、ミサに与ることや赦しの秘跡に与ることとなってくると、どんどん難しくなってきます。

また、自らの信仰告白をどうするかという問題もあります。人前で祈るがごとく常に表明するのか、周りの人を意識しながら、表明しないものの隠さないのか、人それぞれの状況や考え方によるでしょう。私は、普通に生きながらもキリスト者であること、表立っては信仰告白しないが遠慮もしないし、隠しもしないようにしています。

まあ、今までは自分の気持ち通りに生きていたものが、こんな風に色々と考えないといけなくなるのですから、そりゃ大変です。かつて、とあるシスターが「終身請願してしまったからしかたない」といった表現をされて、驚いたことがあります。でも、今ならなんとなくわかります。

私は、キリストの負けて洗礼を受けてしまったのです。私は「あなたに従いますと」神様と約束したのです。色々迷いや悩みがあっても、正しい道は神様の示す道だと知ってしまったのです。どんなに苦しくても、それ以外の道は選べないのです。なzなら、真理を知ってしまったのですから。

それは、楽な道ではありません。とても苦しい道です。でも、昔とは違う苦しみです。神様に負けた時のような、すがすがしい苦しみです。なんか損をした気持ちになることもありますが、その先に主の平和があることを知ってしまったのです。

人が神に従うことは苦しいですが、その先には喜びがあるのです。

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