自己肯定感と聖書
人は自己肯定感がないと生きているのがつらい。ある人は自分はダメだと考えて自分を追い込んでしまうし、ある人は周りを攻撃することで自分を肯定しようとする。常に満たされないので、ありのままの自分を認めて「ま~良いか、、」と考えることができなくなってしまう。
聖書には神様の「良いんだよ」というメッセージが載っています。ここでは、私がお気に入りの3つのお話を書きたいと思います。
1.神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
ヨハネによる福音書/ 03章 16節のことば(引用は聖書協会 新共同訳)です。神様に先に人間を愛されていて、独り子イエス・キリストを人類に与えられたと書かれています。
この言葉は有名でコンピュータ科学者のクヌース先生も「コンピュータ科学者がめったに語らないこと」という書籍で、ランダムサンプリングで聖書を読んでその解説をされています。
自分が肯定しなくても、神様は肯定してくれているのです。
2.イエス・キリストの受難
そんなことを言われても愛されていると感じられないかもしれません。
私の場合は、うまくいかない状況を他の人に求める、最初の2つのパターンでいうと後者の状況でした。やるだけのことをやっていないのに、問題点を他の人に求めていました。そのような状況で遠藤周作さんの本でイエス・キリストの受難を知りました。「負けた!」と思いました。気づいているのに認められない自分の不完全さ、それを受難の話を読むことでようやく認めることができました。こんな私のためにも受難があったのだと思いました。
3.唯一絶対の神、全知全能の神
それだと自分はダメだと気づかされるだけで、自分を肯定できないと考える方もおられるでしょう。
ここで、言葉の定義を考えましょう。キリスト教に限らず、旧約聖書を聖書と認める一神教は、神は唯一絶対で全知全能の存在です。そこでの人間は、ちりの塊だったり、男のあばら骨から作られたもので、神ではなく、過ちを犯してしまう存在です。人間は紙との対比で言えば不完全なモノです。
もちろん、向上心は素晴らしいものですし、天国に入ることや神を証しするには必要なことです。しかし、人間は不完全で完ぺきな存在にはなれない、どんなに頑張っても神様にはなれません。
自分が完ぺきになれないなら、どうすべきか?まずはそのことを認めることです。認めたうえでできることはなるべくよくすることです。こだわりを捨てて諦められることをあきらめて次善の策をとったり、他の人に協力を仰いだり、「絶対に」とか「自分が」といった言葉を捨てることで、今までにできなかったことができるようになります。
自分に優しくなって自分の弱さを認めたとき、人はより強く、より自由に、より優しくなれると思います、自己肯定感はそのようなものだと思います。
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