2008/05/11

父や母と話すように

今日のミサは子供とともに捧げるミサなので、入祭の歌は「神さまがわかるでしょ」(リンク先は聖歌・賛美歌・ゴスペルソングMIDI)でした。一番は自然から神さまを感じるという歌詞なのですが、先日の妻との会話を思い出しました。引っ越して少し日あたりが良くなった喜びを感じた妻が、「神さまのおかげね」と言ったのです。

確かに神さまのお陰で良い家に巡り合えたと思います。でも、妻が出張のついでに実家に帰っている間に、販売開始を見つけて資料をもらい、どの家が良いかを検討し、写メールで妻と連絡を取り合い、申込金を銀行からおろして、誰よりも早く申し込んだのは私です。「まず俺に感謝しろよ!」と思ったのをふと思い出して微笑んでいました。

すると、そのすぐ後に神父様が言われました。「皆さん、神聖な祭りを祝う前に、私たちの犯した罪を認めましょう。」 また、神様にやられました。傲慢な私ですが「わたしは、思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました。」といつもの回心の言葉に気持ちが入りました。

今日は聖霊降臨の主日で、神さまが復活後に聖霊が弟子たちに降り注ぎ、教会が始まった日とされています。第一朗読は「聖霊が降る」(使徒言行録2・1-11)で、炎のような舌が分かれ分かれに現れて聖霊に満たされたお話です。

以前、こころのともしびTVで見た解説によれば、舌の形は「しゃべる」、火は「愛」を現し、愛の心を持って弟子たちがイエスさまのみ教えを人々に伝えることができる恵みを、聖霊によって与えられられたということを意味しているそうです。

説教の中では、神父さまの経験を話されました。クリスマスの頃に教会に来ている子どもに神父さまが「おりこうさんですね」と言われると、子供が「心が咲いた!」と言ったそうです。思いもよらない素敵な言葉に神父さまは驚かれたそうです。クリスマス前で神さまのために良い行いをしようとしていて嬉しかったので、そんな言葉が出たようです。

その後、神父さまが各地を異動され、またその教会に戻られた際に、大きくなった当時の子供と合われたようです。そして、その方は「子供のころに覚えていたたくさんのお祈りの言葉を失くしてしまいました。」と言われたそうです。教会に長い間行かない間に、お祈りの言葉を忘れてしまったのです。

神父さまは「お父さんやお母さんにお話しするときは、何も考えないでしょう。お父さんやお母さんにお話しするように、神様にお祈りすれば良いのですよ」と言われたそうです。すると、その方は聖母子像の前で涙を流しながら20分間祈られたそうです。

きっと色々なことがあったのでしょうね。「あしあと」(リンク先はMAGIS)の詩の神さまのように、聖霊はいつもそばで応援してくれているのでしょうけど、ついつい頑張ってしまうのですよね。でも、心を開けば、いつでも神さまは答えてくださるんだと思いました。

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私にとって神とは - イエスは神か -

キリスト教は解釈によって、昔から分裂を繰り返してきましたが、イエスが神であるかどうかはかなり古い議論(リンク先はWikipedia)です。

しかし現代において、この議論はかなりナンセンス(死語?)です。あるAがBであるという議論をする場合、まずBを定義しなければなりません。つまり、イエスが神であるかどうかを議論するには、まず、神という言葉を定義しなければなりません。

神(God)という言葉を辞書で引くと、さまざまな定義が出てきます。英語の辞書では一神教では不可算名詞、多神教では可算名詞などと出てきます。さらに宗教によって神の定義は大きく異なります。

つまり神の定義によって答えが変わるということになります。「父と子と聖霊」の三位一体を神とするキリスト教ではイエスキリストは神そのもの、イスラム教なら預言者者、ユダヤ教なら偽メシア、ということになります。結局、どの定義を是(アーメン)とするかということになります。

私はキリスト教の教義に対して「アーメン」と言いました。この「アーメン」という言葉は、信仰の告白に用いられるのですが、「然り」、「はっきり言っておく」、「信じます」、「そのとおり」、「その通りでありますように」、というように訳されます。私のアーメンは「その通りでありますように」です。

哲学の世界では、神の存在証明が試みられたり、「神は死んだ」と書いたニーチェが発狂しました。行いで証をした人はいますが、神さまに会ってその存在を証明した人はいませんし、神さまのいる世界といない世界のどちらも成り立つと思います。

私も神様の働きを感じることはありますが、それも偶然とか思い込みという言葉で説明できるものです。でも、神様がいない世界は苦しすぎます。神さまがいるとすればすべてのことに意味があり、どんな苦しいことも良いことにちがいないと思えます。だから、わたしは「その通りでありますように」と言ったのです。

私の信仰はそんな弱いものです。でも信じるというのはもともとそういうものですし、苦しみを乗り越えて明るく生きていくために、私は信仰を捨てることはできません。

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2008/05/10

私にとって神とは - 導き -

救いというのは信仰のきっかけになりますが、信仰ではありません。信仰に至るには導きを認め、イエスが神であることを是とする必要があります。ここでは、私の経験から導きについて書こうと思います。

神さまに救いの業を受けても、それを恵みと感じなければ信仰にはなりません。「偶然」とか「ラッキー!」と思ったなら、それだけのことです。聖書の中でも「重い皮膚病を患っている十人の人をいやす」(ルカ17・11-19)というお話があります。

イエスさまに10人が皮膚病を癒されたのですが、そのうち一人のサマリア人だけが感謝してひれ伏しました。イエスさまは「あなたの信仰があなたを救った」と言われます。皮膚病が治ったのは10人でしたが、本当に救われたのは神を賛美した一人だけだったのでしょう。

そもそも私がキリスト教の本を読んだのも偶然でした。父が亡くなって葬儀の後、カトリックの学校で育った妻が「仏式だと気持ちが入らない」と、私の葬儀は教会でしたい(先に死ぬことが前提です:-)とのこと。私が死んでからのことなので、別にどのような葬儀でもよかったのですが、親の宗派の本とともに遠藤周作さんの本を読んでみました。

その時は、仕事の苦しみが救われることは期待していなかったのですが、救われちゃいました。ひとりで必死になっていたのに、「負けました」という感じです。救われたことでキリスト教に対する興味は増しましたが、それは既存の宗教を受け入れることとは必ずしも一致していませんでした。

それまで宗教を否定していた私にとって、キリスト教を学ぶことに恐怖感を感じていました。高校の倫理社会の授業は結構好きでしたが、十字軍や宗教改革ぐらいの知識しかなく、また、大学の自治会ではカルト的な宗教などの危険性を教わっていました。そんなことから、暴走しがちで一度入ると抜けられないようなイメージがありました。

昔の記事を読んでいただくとわかりますが、そのころは信者じゃない方のキリスト教の解説本やプロテスタントの方の本などいろいろな本を読みました。そして、ある程度の知識を得たころ、どこかに通おうと思いました。

今はカトリックの信者ですが、その頃の候補はカトリックを含めてとりあえず3つほどありました。成人洗礼の方には割と多いようですが、わたしも教会を選ぶつもりでいました。そこで、2ちゃんねるで情報収集して、まずは「最も抜けやすい」とされていたカトリックに行こうと決めました。そのころ妻も通っていたので、こっそり行けるだろうというのもありました。

遠藤周作さんはミサ、特に音楽がいま一つなように書かれていたので、あまり期待していなかったのですが、はじめてのミサは感動的でした。私を救ってくれたイエスさまを皆が賛美していているのです。当時はミサの意味はよく分かっていなかったのですが、賛美していることだけはわかっていたのですね。

ミサ後に妻の知り合いに紹介されて神父さまにご挨拶すると、入門講座に誘われました。本当は行きたくて仕方がなかったのですが、まだ負けを認めるのが悔しくて、その時は黙っていました。でも、やっぱり行きたくて翌週の入門講座に出ました。

入門講座に出ると十字の切り方を教えていただくなど、結構うれしかったのですが、どうも細かなことが気になって、反論したくなったのを覚えています。教わる立場でしたが、教会を選ぼうとしていたので、神父さまを品定めしようとしていたのでしょう。

何度か入門講座に通ううち、教会を選ぼうとしているのではなく、神さまを選ぼうとしているような気がしてきました。神さまに負けたのに、いまだに負けを認めたくない自分に気づいたのでしょうか。

そんなころ教会の横にある修道院のシスターとご挨拶する機会がありました。妻がその修道会のやっている幼稚園に勤めていて、何か用事があると言うのでついていったのだと思います。翌週に東京に行かれるとのことで「私も出張するのでお会いするかも知れませんね」などと言いながら、「もし本当に会ったら教会を選ぶのをやめよう」と思っていました。

出張の当日、まあそんなことはないだろうと思って駅に行くと、見覚えのあるシスターが、、、思わず避けてしまいました(すみません)。そして、新幹線に乗り込むと同じ車両の何列か前にシスターが座られたのです。私は負けず嫌いですが、このときばかりは負けを認めて、ご挨拶にうかがいました。

そんな感じで偶然が重なり、私はそれを「導き」だと思いました。神さまのご計画というか神様に仕組まれたんですね。「必要なものは与えられる」と言いますが、必要な時に必要なものを神さまは与えられたのです。

神さまのご計画というのは、天地創造からこの世の最後の時まで、この世の完成に向けてより良くなっていくというものです。そのために行われる神さまの働きかけが「導き」で、気付かなかっただけで、私もご計画の中に組み込まれていたのでしょう。

私は、救われ、導きを認めました。信仰に至るには、あとはイエスを神とするかどうかだけでした。

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2008/05/08

私にとって神とは - 救い -

ここ何日かのpinpinkororiさんに頂いたコメントを読んで、私の思いを書くことがどなたかの役に立つこともあるのではと、少しずつ書いていこうと思います(あまり、コメントできなくてすみません。すべて読んでいます>pinpinkororiさん)。タイトルは遠藤周作さんの作品と同名ですが、作品とは関係ありません。まずは「救い」について書いてみたいと思います。

人が「救い」を感じるときは、こんなときだと思います。

(1) 不安が取り除かれたとき

特に死に対する不安は、誰しもが少しはあるのではないでしょうか?かつての私は、死ねばそれまでと思っていました。そんな私は、「生きている間は思いっきり生きて、前向きな状態で死にたい」などと思っていました。しかし、これも生きている自分を守ろうと必死になっていたのかもしれません。

また、今のように変化の激しい時代に生きていると、将来に対する不安というものもあります。転職しなくても、今の仕事が退職するまで変わら保障はないですし、転勤などの可能性もあります。大変な仕事が続くと健康への不安もあるでしょう。

そんなときに、この世は完成に向かっている。物事にはすべて意味がある。最初に神が愛された。ということが、未来に対する不安を取り除いてくれます。「なる様になる」ではなく「なるべき状態になる」と思えるのです。

(2)希望が見えた時

人は人と関わりを持たないと生きていけませんが、不完全な人同士が関わることで苦しみも生じます。他の人が信用できなかったり、孤独を感じたり、それは「絶望」という言葉にふさわしい苦しみかもしれません。

晴佐久神父の説教集で電話帳に教会の電話番号を載せるお話がありました。名前のほかに文章を入れることができるけれども、結婚式場みたいな宣伝ではなく、なにか福音的な言葉を載せたいということで、たしか「あなたも神さまに愛されている」というような言葉でした。すると、あるとき電話がかかってきて、お礼を言われたそうです。その方は、絶望のふちにあったが、何気なく電話帳を見て、その言葉に救われたそうです。

私が、ミサに行くのはこのためです。その方のように絶望には至らなくても、日常生活の中で押し殺している苦しみが誰にでもあると思います。ミサ中の聖句や聖歌にある、神さまの言葉に触れて、希望の光が見えることがあるからです。

(3)緊張がほぐれた時(思い込みからの解放)

とんでもなく大変な時、人は破裂寸前の風船のように緊張で張り詰めることがあります。そんな時は周りが見えず、周囲に迷惑をかけたり、人を非難したり、自分はだめだと決めつけたりします。自分が壊れてしまいそうな苦しみです。

私は洗礼を受ける前に、自分の背負った重責に心が押しつぶされそうになっていました。そんな時にイエスさまに出会いました。 イエスさまは孤独という苦しみの中で絶望せず、鞭打たれ、茨の冠を載せられ、十字架を背負い、手足を打たれながら、父なる神にとりなすという重責を果たされました。

遠藤周作さんの「キリストの誕生」で描かれたイエスさまは、がむしゃらになるのではなく、弟子に裏切られても苦言の一つも言わずに、淡々と人類の救済を行われました。その姿を知り、必死になっている自分を振り返ることができ、緊張がほぐれ、苦しみがら救われました。

なぜ、私の緊張がほぐれて救いを感じたのかはよくわかりません。まだまだ努力が足りないと思ったか、イエスさまの苦しみに共感したのか、イエスさまの優しさにほっとしたのか、それとも自分の小ささを感じたのかもしれません。とにかく、私は救われたのです。

人が救いを感じるとき、そこには「愛」があります。愛は希望の光です。希望の光に照らされた道を歩むこと、それが「信仰」なのだと思います。

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2008/05/05

信仰ではなく救いを求めて

私が教会に行ったのは、救いを求めていたからです。世の中には、良い死を迎えるために信仰を求められる方や、結婚相手の信仰を知るためや、興味から、など、さまざまな目的で教会に来られるでしょう。

しかし、教会というのは「信仰のための場」である前に「救いの場」でなければいけないと思います。教会に来て救われないなら、どこに行けば救われるというのでしょうか。マザー・テレサのように、信仰や思想に関係なく人格を認め、苦しみを和らげる行いが必要だと思います。

先日の黙想会での赦しの秘跡で、こんなことがありました。カトリックの洗礼を受けていない方が二人も来られたのです。もちろん、ゆるしの秘跡を受けることはできませんので、神父様にお話を聞いていただきました。多くの方のゆるしの秘跡でお疲れの神父さまに申し訳なかったのですが、教会の救いの業はそんなところから始まるのではないでしょうか?

私は神様を信じていませんでしたし、人間に信仰が必要だとも思っていませんでした。しかし、救われて、恵みを感じたことから、信仰に喜びを感じるようになりました。私のような人間に神の教えを広めるには、まず救われなくてはならないのです。信仰の形を押し付けるのではなく、受け入れることが大事だと思います。

でも、それが難しいのでしょうね。人によってバザーなどのイベントが好きだったり、教理が好きだったり、分かち合いが好きだったり、ただひたすら祈るなど、求めるものが人によって異なります。分かち合いが良いといっても、何げなく言った一言で、誰かを傷つけることもあります。

結局、神さまとの関係を大切にすること、神の教えを実践すること、そして、ミサと祈りをを大切にすることしかないのでしょうね。教会を一番に置くのではなく、自分と神さまの関係を一番に置くことが、教会を救いの場とするのではないでしょうか。

私信:放蕩娘さんお帰りなさい。いつでも戻ってきてください。

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2008/05/04

いつもあなたがたと共にいる

24 先日、上牧にある二十四節記というところに行きました。ロハスというのはこういう雰囲気を言うのでしょうか、欧州の田舎をイメージした建物には、雑貨屋さん、喫茶店、レストランなどがありました。窓辺の席でフレンチプレス(コーヒープレスともいうらしい)でいれたコーヒーをいただくと、やさしい香りとさわやかな風で幸せな気分になりました。

Frenchpress 何もかも忘れてボーっとしていましたが、ふとイスを見ると十字のマークが目に入りました。

今日のミサの福音朗読は「弟子たちを派遣する」(マタイ28・16-20)、マタイによる福音書の最後のところです。イエスさまが昇天される前に弟子たちに

「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」

と弟子たちを派遣されました。そして、最後にこう言われます。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

これは、ヘブライ語で「インマニュエル」というそうです。椅子の十字架のように、私たちが気がつかないだけで、神さまはいつもそばにいてくださるのですね。

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日本文化の破綻

個人主義が進む中で、社会の何かが壊れているような気がしていました。以前、世界像の崩壊を知り、何となくわかったつもりでいました。しかし、どうも日本の状況はそれだけではないように、なんとなく感じていました。

先週のミサ後の「教理の時間」で、神父様がルース・ベネディクト(リンク先はWikipedia)の

キリスト教的欧米文化は「罪の文化」であり、日本の文化は「恥の文化」である。

という言葉を取り上げられました。「恥の文化」というのは「他の人に後ろ指を指されると恥ずかしい」という村のような横の関係である。「罪の文化」というのは神との関係における「罪」という縦の関係である。とされました。

この日本文化の捉え方には批判もあるようですが、私の思いに一つの説明を与えてくれました。この横の関係を評価の観点で考えてみると、「恥の文化」の評価の基本は「相対評価」だと思いました。私が子供のころ、学校の成績は相対評価でした。クラスの中で上位n%が「5」その次のm%が「4」といった感じです。クラスという村のように狭い環境の中で評価が決まっていたのです。

「相対評価」というのは、なかなか良かったような気がします。全国レベルでは大した成績でなくてもクラスで上位に入れたなら、その子はできる子でした。普段は苦手な科目でも、たまたまできる子の調子が悪いと良い成績がもらえる可能性がありました。みんなクラスメートに負けまいと、お互いに仲良く競っていました。

いつからか学校の成績は絶対評価になりました。全国で何位の成績かまでわかるようになり、クラスメートはライバルではなくなりました。良い成績をとるためには、クラスメートでなく自分に勝たなければなりません。そんなグローバルな絶対評価によって、より個人主義が進んだのかもしれません。

個人主義が進むと「恥の文化」は破綻します。「恥の文化」では、お互いに恥ずかしくないようにすることで、全体が高いレベルで保たれていました。しかし、絶対評価による個人主義が進むことで、自身を高めるための基準として他の人を見なくなったのです。

「恥の文化」の破綻は、倫理観を希薄にします。生きるための基準が全体の中での順位だけになり、より高い地位に上がることが行動の目的になりました。学校なら偏差値、会社なら給与のためなら何でもするようになりました。「あの人もやってるやん」と悪いことも平気になり、多くのトラブルや犯罪が生まれたのだと思います。

個人主義が進むと、人は絶対的な善悪の基準を必要とします。しかし、欧米の「罪の文化」と異なって真理を持たないので、それぞれが社会生活の中で自分勝手な基準を作ってしまいがちです。そして、いつの間にか自分を苦しめるようになるのです。

思い起こすと、昔の私がそうでした。会社に就職し、会社の仕組みを知ると、会社員としての価値観を構築しました。仕事が趣味に近かったこともあり、私はワーカーホリックだったと思います。家庭とか、社会貢献とか、周りの人への気配り、そんな価値観はどこかに忘れて、ただひたすら働いていたのです。仕事がうまくいっている間は良いのですが、何か問題があると大変なのですよね。目的を達成できないまま、努力だけが求められるからです。

人間が生きる上で重要なことはなにか、そんな発想を持たないと、うまく生きていけません。勝手な基準に従って、人を傷つけ、そして最後には、自分自身を苦しめることになってしまうのです。

昔は良かった。私もそう思います。しかし、時は戻りません。かつて海援隊の「母に捧げるバラード」という歌で、こんな詞がありました。教職課程をほとんど終えて、あと数カ月もすれば卒業できるという息子(武田鉄也さん)が、安定した未来を捨て音楽バンドのために東京に行く時、母は必死になって働けと息子に語ります。そして苦しいとか、休みたいとか思ったら、「そんときゃ鉄也、死ね!」と語るのです。

昔は、子供のことを思わない母親はいませんでした。その母親が「死ね!」と本気で言うわけがありません。海援隊が解散を決めた時、お母さんは「お疲れ様でした」とお母さんは言われたそうです。そんな人並みのねぎらいしか言えない母親が、「死ね!」と言ったのは、息子の不安な気持ちを知っていたのでしょうね。そして、不安な中でもあきらめず、がんばれ、とにかく頑張れ、そんな励ましの言葉が「死ね!」だったのでしょうね。

でも、時代は変わり、今は前提が崩れ、愛情表現としての「死ね!」なんて許されない時代になりました。子供の死を願う母親は勿論のこと、自分で死のうとする人も少ない時代でした。しかし、数値化された価値観の中で生きている現代人にとって、「死ね!」は文字通りの意味しか持たなくなりました。親子の関係を前提とした相対的な表現でなく、直接的て絶対的な表現が必要なのです。「夢を大切に!」「夢はかなう!」「応援しているよ!」などと言わないと伝わらなくなりました。それは、日本の文化が破綻したからだと思います。

かつての日本の文化が破綻した今、新たな文化が必要なのではないでしょうか。それは、絶対的な(罪の)文化、倫理観、愛、救い、だと思います(人によっては、信仰といわれるかもしれませんが、私は必要なものに信仰を含めません。愛の行為による救いの結果、付いてくるものだと思っているからです)。

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2008/05/03

恐れるな。語り続けよ。黙っているな。

今日は所属教会で初金ミサでした。神父様お二人の共同司式によるちょっと贅沢なミサでした。

福音朗読は「悲しみが喜びに変わる」(ヨハネ16・20-23a)でした。イエスさまの受難で悲しむが、復活によりその悲しみは喜びに変わると宣言されたお話です。どんな悲しみの中にあっても「喜びに変わる」という期待があれば、前向きに生きていくことができます。日常の苦しみが大きければ大きいほど、喜びもきっと大きなものであるというキリスト者への希望の言葉だと思います。

ところで、第一朗読は、「コリントで/パウロ、アンティオキアに戻る」(使徒言行録18・9-18) でした。朗読の最初はこんな言葉から始まります。

ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。(略)」

ブログネタは あるのに身構えてしまい、なかなか書けない時があります。また、入門講座や聖書の分かち合いでお祈りする時も、祈りの言葉は浮かんでいるのに、うまく言えなかったりもします。

神さまが、そんな私に直接語られたような気がしました。もっと素直に、神様にゆだねればよいのでしょう。身構えたり、思い悩むことなく、もっとストレートに自分の思いを語れば良いのでしょうね。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2008/04/29

わたし自身を現す

日曜のミサの続きです。ミサの第1朗読は堅信の元になったお話でした。先週、今でいう助祭に選ばれた7人のうちの一人であるフィリポ(リンク先はWikipedia)がサマリアで洗礼を授け、エルサレムからやってきたペトロとヨハネが手をかざすと人々は聖霊を受けました。

この手をかざす(按手)というのは聖霊を授ける意味があり、洗礼式で代父母が肩に手を置くのも聖霊が働くようにしているそうです(知らずにやっていました:-)。ちなみに、Wikipediaによると、ミサで祝福を受けるのは神に祈っている(祝福)のだそうです。

福音朗読は「聖霊を与える約束」(ヨハネ14・15-21)でした。この中でイエスさまは、「みなしごにはしておかない」、ご自身の代わりに新しい弁護者として聖霊を一緒にいるようにしてくださると約束されます。そして、最後に

「わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」

と言われます。この言葉を聞いて、私が救われた時のことを思い出しました。当時、仕事に苦しんでいた私は責任逃れをしていました。もっと私自身にもうまくやる方法があったのに、主たる原因ではないこともあってそれを認めていなかったのです。

遠藤周作さんの「イエスの生涯」や「キリストの誕生」を読む中で、私はイエス・キリストと弟子たちに共感し、愛しました。すると、かたくなだった私の心がほぐれたのです。

パパ(教皇)の回勅にあるように「神は愛」だったのです。救いを求めていた私は、神を知り、愛し、愛されることで救われたのです。私の中に何かが入ってきたような感じがして、私はそれを勝手に聖霊だと思っています。神さまが自身を現してくださったのです。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2008/04/28

善をおこなって苦しむほうが、悪を行って苦しむよりはよい

今日のミサの第2朗読は「正しいことのために苦しむ」(一ペトロ3・15-18)でした。このなかの17節が心に響きました。

神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。

洗礼を受ける前に神父様に言われた言葉を思い出しました。

洗礼を受けたら楽になると思ってはいけない。もっと苦しくなる。

その時はよくわからなかったのですが、今なら何となくわかります。人間は、いや、少なくとも私はダメダメです。普通に生きているだけで、いろいろな罪を犯してしまいます。良いことをしたつもりでも、自分の中にある傲慢な気持ちが見えてしまいます。

でも、苦しくても洗礼を受けて良かったと思っています。少しでもより良い方向が見えるからです。ほんの少しだけ、ちょっとだけ良いことをする。そこには苦労が伴うかもしれませんが、良いことをしたという喜びがあります。

洗礼を受けることで楽になるわけではありませんが、みこころに従った時は暖かいような、幸せな気持ちになるんですよね。やっぱり、洗礼良いですよ~

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2008/04/27

はずかしい思い出

先日の聖書の分かち合いで、弟子たちは移動中パンを割かれるなど日常生活の中でイエスさまと再会したことから、日常が大切だという意見が出ました。

翌日のミサで「日常が大切か」などと思いつつ神父さまの司式を見ていて、昔のことを思い出しました。それは、高校の時の合宿です。

合宿といっても夏休みに書道教室(和室なので)に泊まるだけです。顧問が寝たのを見計らってトランプをして、ばれて怒られた翌朝の出来事です(ここまでで十分恥ずかしいですね)。人数を考えてパンと牛乳を買い出してあったのですが、食べざかりの男の集まりなので牛乳の取り合いが始まりました。

すると、顧問が間に入り「おまえらは『分ける』」ということを知らんのか!」と牛乳を分け出しました。人数分がきれいに取り分けられると、殺気立っていた雰囲気が、照れくさいような、それでいて穏やかな雰囲気になりました。

そんなことをミサ中に思い出して笑ってしまいました。もちろん平和の挨拶もいつもよりニコニコしていたと思います。なんだか、とても平和な気分でした

イエスさまが最後の晩餐でパンを分けられたのも、5つのパンと2匹の魚でみんなが満たされたのも、実はそんな基本的でとても重要な教えなのかも知れませんね。

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2008/04/26

なぐさめる神

久しぶりに入門講座に出ました。入門講座では日曜日の「聖書と典礼」を用いて分かち合いをしています。

日曜の福音の中で、「弁護者」という言葉が出てきますが、「聖書と典礼」によると弁護者とは言語(アラム語)で「パラクレートス」そばに呼ばれたものという意味だそうです。

神父様によると、これはギリシャ語なら「PARACLASE」、ラテン語なら「PARACLITUS」、これらはラテン語の「CONSOLATOR」と同じ意味で「なぐさめる」という意味だそうです。

神さまはいつもそばにいてくれるだけでなく、慰めてくれていたのですね。

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2008/04/21

見ていたが知らなかった弟子たち

土曜日は久しぶりの聖書の分かち合いでした。日曜のミサの福音「イエスは父に至る道」(ヨハネ14・1-12)を分かち合いました。すこし難しいお話でした。

いつもながら、イエス様のことを分かっていない弟子たちは、おとぼけを繰り返しています。イエスさまが「あなたがたは道を知っている」と言われれば、「わからない」と言い、「あなたがたは既に父を見ている」と言われれば、「お示しください」と言います。

確かにイエスさまの言われることも難しいです。三位一体の説明であるとされるこの福音では、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」つまり「イエスさま∈父」かつ「イエスさま∋父」、つまり「イエスさま=父」といわれているのです。のちの時代のアウグスチヌスも苦しんだという三位一体は弟子たちにも難しかったのでしょうね。

イエスさまのことばで最も気になるのは7節です。

「あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」

という言葉は、一見、言いなおしたようですが、父(でありイエスさま)である神を知るのは未来だけど、父(でありイエスさま)である神はすでに見ている。つまり、イエスさまが神であることを分かっていないと言われているのです。

そんな、神学的に重要なことが述べられている箇所で、なぜ、弟子たちはこうも理解が無いように描かれているのでしょうか。私には遠藤周作さんの解釈が思い出されました。つまり、イエスさまは、弟子たちに理解されないまま、耐えがたい孤独の中で亡くなられたことを聖書作家は強調しているのです。

かみさまとだらばにS神父様のラジオのお話が出ていました。イエスさまは神様であるのに、上からでなく我々のところ、谷間の下に降りてきてくださったというお話です。

「この世の現実に密着し一人一人の人生を見つめ出会いを求め
新たな人生を指し示すために、イエスは谷間に降り立ちました。
谷間に降り立つ十字架は永遠の命であり、「道」であるのです。

これほど、イエスさまを表したことばはないでしょう。イエスさまは、肉体的にも精神的にも傷つき、苦しまれることで、苦しみ、もがいている私たちの所に降りてきてくださったのです。小さな子供に話しかけるように、しゃがんで、私たちの目を見て語られたのです。

神であるイエスさまが多くを語られていたにもかかわらず、弟子たちはわかっていませんでした。イエスさまがユダヤの国を救う救世主と誤解し、ある時はお調子者のように、ある時は自分勝手で、時には「知らない」とまで言いました。受難の時でさえも、自分たちの身を守るために、どこかに隠れていたことでしょう。

しかし、受難後に復活されたイエスさまに出会うと、そんな弟子たちも変わりました。へなちょこだった弟子たちは死をも恐れず、世界中にイエスさまの教えを宣べ伝えたのです。遠藤周作さんは、これを復活の奇跡と呼んでいます。

現実的な解釈をされる遠藤周作さんは、奇跡はあったかもしれないし、比喩的な表現かもしれないと考えておられたようです。しかし、頼りない弟子たちが受難の後になると、突然力強く宣教を始めたのは間違いなく、それこそ奇跡だとされています。そのことを人々に知らせるためには、すでに使徒として尊敬されていた弟子たちであっても、過去のたよりない様子を描かざるを得なかったのでしょう。

この復活の奇跡のきっかけとなったイエスさまとの再会は、漁、移動、食事 といった日常的な行いの中での出来事です。わたしたちが日常の苦しみの中でイエスさまと出会ったように、弟子たちも日常生活の中で、本当のイエスさまに再会したのでしょう。

私たちは、すでに出会ったつもりではありますが、

「わたしは道であり、真理であり、命である」

と言われたイエスさまを見ているだけでなく、イエスさまの道を歩いていきたいと思います。

その道の基本は、復活祭の福音にあるようです。イエスさまが復活されたとき、墓の中は「空(カラ)」でした。復活信仰であるキリスト教の基本は、なんと「カラ」なんです。自分に対するこだわりを捨て「カラ」になってこそ、キリストの道に入ることができる、つまり「捨てることで得られる」ということなのでしょう。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2008/04/17

今年の枝

Eda_03 今年の枝はテレビの上に置かれています(写真は頂いて1週間目のもので、かなり白くなっています)。横にある羊は羊年に雑貨屋さんで買ったものです。草原の羊をイメージしたのですがいかがでしょうか?

もっと小さい枝をもらって壁につけるつもりでしたが、知り合いの方とのやりとりで「もっと大きいのにしなさい」「いや、電車ですから」「見せびらかしなさいよ。良いのをあげるから」などと言われて、今年も立派な枝を頂きました。

当日はミサの後に照明器具を探したので、梅田、寺町(京都の電器街)、西院と透明な袋に枝を入れたまま、見せびらかしてきました。

Eda_04 現在は右の写真のように全体が白く、丸まってきました。この枝は来年の四旬節の前に回収され、灰になります。そして灰の水曜日(あるいは次の日曜日)に額につけていただきます。そして、枝の主日に新しい枝を祝福していただき、持ち帰ります。

Eda_01 枝の主日は、左の写真のように隣の幼稚園に枝を持って集合し、聖水で祝福を受けた後、枝をもって御聖堂まで行進します。イエスさまのエルサレム入城の様子を再現したミサなのですが、皆で歓迎するところがお気に入りです。

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2008/04/14

神さまの所為にした僕

心のともしびTV(番組の動画を見ることができます)の第20回「神の賜物の用い方」は、ここでも何度か紹介した「タラントンのたとえ」(マタイ25・14-30)でした。

これは、神さまからの賜物(能力)をタラントンと言うお金にたとえたお話です。ある人(神様)が僕(しもべ)にお金を預けます。人によって渡される金額は違うのですが、僕たちは頑張ってそれを増やしてほめられます。しかし、1タラントンだけ預けられた僕は、無くしては大変だと増やそうとせず、(天国から)追い出されてしまうというお話です。

この最後の能力を生かさなかった僕ですが、ちょっと理解に苦しむことを言っています。主(神さま)は怖い人だから無くしては大変だと思った、と言うのです。神さまを誤解してはいけないと言うお話かと思っていたのですが、心のともしびTVの井上神父によれば、これは「投影」で、自分の責任を神さまになすりつけているのだそうです。

Wikipediaによれば、投影は「欲求不満などによって適応が出来ない状態に陥った時に、不安が動機となって行われる自我の再適応のメカニズム」である防衛機制の一つで、「自己が抱いている他人に対しての不都合な感情を、相手が自分に対して抱いていると思うこと。」だそうです。自分の抱く不安感を神さまに当てはめ、だってあなたもなくしたら困ると思っていたでしょう、と責任逃れをしているのです。

考えてみると、人間が殺しあっているだけなのに「神さまはどうして平和を与えられないのか」とか、勉強しなかっただけなのに「不公平だ」などと考えてしまいがちです。

望みがかなわなくても「気が楽で良いや」と前向きに、どんなに苦しいことも恵みと考えて明るく生きてたいと思います。だって、そう信じることができれば「だいじょうぶ」なのですから、、

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2008/04/13

私たちは羊飼い

今日は時間がないので、近くの桂教会で共同祭儀に与ってきました。京都ではブロック単位の共同司牧が行われていて、毎月の第何週かによって、ミサ、共同祭儀、ブロックミサが行われています。

共同祭儀では神父さまがおられず、信者だけで祭儀を行います。このため、聖変化(パン->御聖体、葡萄酒->御血の変化)がなく、すでにあるご聖体が用いられます。両形態(葡萄酒もいただける祭儀)ではないので少しさびしいですが、手作り感と、説教の代わりに行われる講和が率直で親しみやすい場合が多く、ミサ同様に恵みを感じます。

今日の講話は福音朗読の「『羊の囲い』のたとえ」(ヨハネ10・1-10)について話されました。ミサの中でもよく歌われるような内容ですが、良く読むと2つのことに気が付きます。

一つ目はイエスさまが、ファリサイ派に話されていたことです。私たちは、神さまの教えにしたがっているつもりで、知らない間にファリサイ派になっていないか、振り返る必要があります。

もう一つは、イエス・キリストが門であることです。ずっと、イエス・キリストは良い羊飼いだと主ていましたが、羊飼いでなく門なのです。この答えは、第2朗読の「召し使いたちへの勧め」(2・20b-25)の最後にあります。

あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。

私たちは羊でなく羊飼いだということです。

日頃の生活の中で神様に救いばかりを求めてしまいますが、人を救うことが求められていたのですね。

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2008/04/11

合理性に勝る大切なもの

 心のともしび第600号に渡辺和子シスターが「美しい光景(リンク先は心のともしび)」というマザーテレサのお話を書かれています。

 助かりそうな人ではなく、助かりそうにないホームレスに手当をすることを問われ、マザーは生きている間じゅう邪魔者扱いを受けた人が、生まれて初めて優しい看護を受け、感謝して亡くなっていく様子を語られます。中にはほほえみさえ浮かべるその姿は、「それはそれは美しい姿」だそうです。

  誰もが均等に一度だけ与えられる死という大切な時、「愛された」という経験で尊厳を取り戻すことに役立った薬や人手は、「美しいもの」を生み出すために役立ったのです。たとえ薬や人手が不足しがちであっても、それは大切なことなのでしょう。

  災害時の医療技術としてトリアージという治療の優先度を決定する方法があります。限られた時間と資材・人材の中でなるべく多くの人命を救うための方法です。そこでは、助からない人に治療をすることは許されず、助かる人にのみ治療が行われます。マザーの行為は、一見それに反する非合理的な行為に思えます。

  しかし、マザーの行為が間違っているとは思えません。誰もが幸せになるために命が与えられたはずです。その最後のチャンス、もっとも緊急に手当てが必要な人にマザーは手当をしていたのです。

  世の中は、どんどん合理化が進んでいます。すべてのことがお金を中心に回ってしまいがちです。どんな手段を使ってもお金を得らればよいような風潮があります。しかし、それが本当に大事なことか、それのためにはすべてを捨てて良いのか、しっかりと考えなければなりません。幸せとは何か、忘れていることはないのか、たとえ薬を与えられなくても、そばにいることはできないか、単純な合理性を考えるだけでは見失ってしまいがちな、大切なものを見失わないようにしたいと思います。

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2008/04/06

キリストの復活

復活節第3主日だった今日は「エマオで現れる」(ルカ24・13-35)が読まれました。イエスさまが復活されたからこそ、聖書を知って心が燃えるのだと思いました。

ミサが進み聖変化でホスチアがご聖体になったとき、ふと「ご聖体はキリストのからだ、つまりキリストそのものになるのだから、聖変化でいつもキリストは復活しているのではないか」と思いました。

そのすぐあと、神父さまが「信仰の神秘♪」と歌われ、皆でこう歌いました。

主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるま~で~♪

イエスさまは2000年前に復活されただけでなく、ミサのたびに復活されていたのだとおもいました。だから、私たちの心は燃えるのですね。

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2008/03/28

契約の更新

主の御復活おめでとうございます。
この時期の「契約の更新」と言うと、聖香油のミサで行われる神父様たちの「契約の更新」が有名ですが、先日の復活徹夜祭は、私にとって信者の契約の更新の日でした。

去年の復活徹夜祭では、洗礼を受けた際のことが思い出されて胸が熱くなりました。そして、復活徹夜祭は洗礼を思い出す時なのだと思いました。しかし、今年になると、洗礼の時のこと熱く思いだすことよりも、神さまの復活を強く感じました。

洗礼を受けて2年もたつと、日常と信仰生活の折り合いをつけるようになります。以前なら少々の無理があっても、ミサや入門講座に出ていました。しかし、無理なことが続くわけもなく、自分なりの基準で出る時と出ないときを決めています。入門講座では「神さまを一番に置くことが信仰」と教わりましたが、神さまがゆるして下さるとわかっているからこそ、甘えることもできるんだと思っています。

復活徹夜祭と復活祭は神さまの「復活」を祝うのですが、この「復活」を実感して信仰を続ける決意をすることが私の思う契約の更新です。復活といっても教義にあるような肉体の復活の実感ではなく、遠藤周作さんの言われるような心の中での復活です。

信者として生きていると、ミサのときや祈りの時には間違いなく神さまを思い出すのですが、あまり実感できないことがあります。もちろん、聖書の言葉や聖歌から神さまの存在は感じるのですが、神様からの語りかけのようなものがあまり感じられません。

「沈黙」の主人公の神父のように、神の語りかけを待ち望み、お祈りしているのかもしれません。きっと必要な時には答えてくださると信じながら、日々神に語りかけているのです。

今年の復活徹夜祭では、代父をさせていただきました。洗礼を受けた皆さんは神様の愛を実感して幸せそうでした。そして、誰よりも近くで洗礼を見た後に、ふっと神さまが語りかけられたような気がしました「みんな同じように愛しているよ」と。神さまは私の中でも復活されたのです。そんな実感があり、心の中があたたかくなりました。

今年の復活徹夜祭は、神さまの愛を感じ、洗礼志願者とともに「信じます」と誓う場でした。わたしは、契約を更新しました。

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2008/03/19

十字架につけたのは私です

受難の主日であった先日のミサでは涙がにじみました。イエスさまが裁かれる模様(マタイ27・11-54、リンク先はJBS日本聖書協会)が福音朗読で読まれたのですが、神父さまのほか、二人の朗読奉仕者が読みます。その途中で、ミサの参加者が「十字架につけろ!」とイエスさまを裁くのです。

この「十字架につけろ!」という言葉を読むと私の胸が熱くなります。私を苦しみから救ってくださったのは、十字架にはりつけられたイエス様ですが、そのイエスさまが十字架にかけられたのは私の罪深さです。

私の苦しみは、自分の思いにとらわれて、自分の側からしか世の中を見れなかった苦しみでした。人類の罪を一身に背負われたイエスさまは、私の罪をも背負ってくださいました。だからこそ、私は救われたのだと思います。

神さまは時間と空間を超越した存在です。2000年前に私のために十字架にかけられたイエスさまを思うと、「十字架につけろ!」と言うたびに胸が熱くなるのです。

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2008/03/13

ヤーウェ・イルエ ~四旬節黙想会に参加して~

所属教会の四旬節黙想会はイエズス会の平林冬樹神父をお招きし、「現代に息づく188殉教者の霊性」と題して行われました。

「殉教」とは、「殉職」が仕事のために命を失うように、教えのために命を失うことですが、もともとのことばは“martyria”「証し」という意味です。つまり、「殉教」は神への信仰・希望・愛の証しであり、また、神の愛に応えることです。キリスト教は主の死と復活から生まれたように、苦しみを乗り越えることで喜びを得ることはキリスト教の本質です。愛を実践することはキリスト教の証し、つまり殉教なのです。

188殉教者の時代の教会、大浦天主堂のマリア像の前に現れるまで200年間潜伏していたキリシタン、そして現代の教会にいたるまで、日本の教会は400年以上の歴史があり、その根底にはキリスト教としての一貫性があります。そのような中で、188殉教者はキリシタン時代からの日本のキリスト教会のアイデンティティであるといえます。

188殉教者の霊性から、現代に生きる私たちが学ぶことはたくさんあります。殉教者はその死に方だけでなく、その生き方も私たちへのメッセージです。彼らは家庭を基礎とし、共同体を運営し、地域に貢献しました。福祉事業を通じて地域に貢献して人々に感謝されていました。殉教の際にも「彼らは悪いことをしたから処刑されるのではない」と言われました。

当時は司祭が不足していたようですが、40歳以下は叙階させず、勉学と祈りが重視されていました。豪胆かつ柔軟であった当時の司祭・修道者たちは、捧げつくし、道を示す人だったようです。

188殉教者は、イエスの十字架以外に人間の真のいのちへの道はないことを証しました。また、日本人が元来持つ「忠実さ」の徳をキリストの価値観に高めました。これは「熱心に」ではなく、「たんたんと、ひたむきな」信仰です。理不尽な命令に従うことにより、人間の尊厳である信教と良心の自由を守り抜きました。

このようなお話の後、次の列福運動の対象であるユスト高山右近のお話になりました。豊臣秀吉の禁教令に逆らったために国外追放され、マニラで亡くなった高山右近は、もともと殉教者として申請されました。しかし、殉教ではなく、証聖者(殉教していない福者・聖人)として再申請するように指示されました。この証聖者として列福するには、奇跡が必要となり、このことが右近の列福の最大の障害となりました。その後、なぜか最近になって殉教者として申請するように指示されたそうです。

その背景には、どうもコルベ神父の影響があるようです。それまでは殉教の定義は厳しいもので、信仰を守るために亡くなっていることや、島原の乱のように闘っていないことなどが決められていたようです。しかし、コルベ神父が列聖される際に、ヨハネ・パウロ2世の希望により殉教者として扱われました。コルベ神父は、イエスの教えである「友への愛」を証ししたとして、殉教者とされたのです。このため、コルベ神父の列聖式は赤と白の両方のバラが飾られたようです(通常の列聖式では、証聖者は白のバラ、殉教者は赤いバラを飾ります)。キリシタンの時代から大浦までの270年間の礎となった高山右近も、このような流れから、殉教者として扱うことが可能になったようです。

このお話は私にとって驚きでした。日本で「聖母の騎士」を創刊したコルベ神父は、(北原怜子さんとアリの街を支援し、宝塚歌劇にもなった)ゼノ修道士を日本に誘うときに、26聖人の殉教を話されたようです。そう、所属教会(高槻)の守護聖人である26聖人です。そんなコルベ神父が高槻城主であった高山右近の列福を後押ししているのです。

私の好きな「ヤーウェ・イルエ」(神は備えて下さる)という言葉があります。神さまを知ったことも、殉教の機会を与えられたことも、さまざまな出会いも、すべての物事には意味があり、神様が備えて下さったのだと思います。そして、26聖人の殉教に興味を持ったコルベ神父の列聖によって、高山右近の列福の可能性が高くなったのも、やはり神さまが備えて下さったのだと思います。

私が厳密な意味で殉教することはないかもしれませんが、神様が備えて下さったことを喜び、淡々とひた向きな信仰を守り、愛を証ししていきたいと思いました。

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2008/03/12

家の祝福

皆様ご無沙汰しています。実は先日引っ越しをしました(といっても100mだけ)。そんなにため込んだつもりはなかったのですが、大量の荷物とゴミでかなり大変でした(もうフラフラです)。

日本の伝統だと、地鎮祭や上棟式などをやるのでしょうけど、カトリックでは祝福をしていただきます。神父様によると、海外では家が完成した際に行うだけですが、日本では以下の3回出来るようです。

  定礎:土台の完成
  棟上:骨組みの完成
  新築:家の完成

Syukufuku 我が家の場合は、(少しは希望を聞いてくれるものの)建売なので、入居前に一度だけ祝福していただきました。各部屋を聖水で祝福していただいたあとに共同祈願があり、これまでの感謝と未来への祈りを祈りました(冊子を読んだだけです)。

小さな家ですけど、少し幸せになりました。

(祝福をお願いした時は、聖水を入れる器(コップなど)を用意しておいた方が良いようです)

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2008/02/26

色々な出会い

日曜のミサの福音は「イエスとサマリアの女」(ヨハネ4・5-15,19b-26,39a,40-42)でした。説教では、「袖振りあうの多生の縁と言いますが」とイエスさまと出会ったサマリアの女がイエスさまと出会い、主であると知ったお話から、出会いを大切に人の役に立つ事をとお話しされました。

この日は洗礼志願式(四旬節第一主日に入門式だったのでずれています)でした。私は初めての代父として一応お役に立っているつもりですが、これも神さまとの出会いがあったからこそです。

カトリックで洗礼を受けたのは新幹線でシスターにお会いしたからで、入門講座に通いだしたのは当時の主任司祭に誘われたから、今の教会に通ったのは妻が先に通っていたから、そしてキリスト教に興味を持ったのは遠藤周作の本を読んだから、、、、

たどっていけば限りなく、偶然のような当然のようなことが続きます。その中には、一見、不幸に思えることや苦しいこともたくさんありました。でも、どんなことにも意味があり、今につながっていたのだと思います。

これからの人生の中でも苦しいことはたくさんあるに違いありません。しかし、それもきっと意味のあることだと思います。

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2008/02/17

好きになるのではなく、愛することが求められている

ここ何週間かで、最も印象に残った言葉です。
イエスさまは「汝の隣人を愛しなさい」と言われましたが、好きになりなさいとは言われていません。人それぞれ苦手な食べ物があるように、どうしても好きになれない人がいます。イエスさまは嫌いな人を好きになれとは言われていません。嫌いでも良いから、その人を認めて愛するのです。

ミサの後の要理の時間でこんな話を聞きました。あとで、食べ物で考えるとイメージが広がります。嫌いな食べ物が料理に入っていたら、毛嫌いするように分ける人がいますが、好きな人に任せるとか、そもそも注文しないとか、嫌いな食べ物がより生きる方法があると思います。

人との付き合いにつかれることも多々ありますが、無理に好きになろうとせず、しみじみと受け入れ、その人が生かせるような優しさを持ちたいものです。

書きたいことが色々あるのですが、公私ともに忙しく、体調もあまりよくないので、ペースが落ちています。気長に見てやってください。

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2008/01/27

神の美しさを仰ぎ見る

ここのところ忙しくてあまり書けませんでした。先週のミサも書きたいのですが、先に、最近の出来事を考えさせられた今日のミサのことを書くことにします。

今日のミサの答唱詩編で、こんな言葉がありました。

わたしは神に一つのことを願い求めている。
生涯、神の家を住まいとし、
あかつきとともに目ざめ、
神の美しさを仰ぎ見ることを

これを聞いて、もう一つ(仕事関係の人向け)のブログにも書いたこんな富士山を思い出しました。

Fuji080125_2

そして福音朗読は、「ガリラヤで伝道を始める/四人の漁師を弟子にする」(マタイ4・12-23)でした。洗礼者ヨハネが捕えられたことを知ったイエスさまが、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝え始められたお話と、最初の弟子がイエスさまにしたがったお話です。

このとき、イエスさまは、

「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」

と言われるのですが、私にもそんな出来事がありました。

代父を依頼されました(パチパチ)。イエスさまに負けて2年半、